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ダービーステークス
Derby Stakes
2012年のダービーステークス
開催国イギリス
競馬場エプソム競馬場
創設1780年5月4日
2017年の情報
距離芝12f6y(約2420m)
格付けG1
賞金賞金総額1,625,000英ポンド[1]
出走条件サラブレッド3歳牡馬・牝馬
負担重量牡馬126ポンド(約57.2kg)
牝馬123ポンド(約55.8kg)
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ダービーステークス(Derby Stakes)は、イギリスのエプソム競馬場(芝、1マイル4ハロン6ヤード、約2420メートル)で行われる競馬の競走である。
他国のダービーと区別するために、欧米では会場の競馬場にちなみ、特にエプソムダービー(Epsom Derby)という呼称も多く見られる。日本のメディア、特にテレビなどではイギリスダービー、英ダービーと呼ばれることもある。
1776年にイギリス最古のクラシック競走・セントレジャーステークスの盛大さを見たダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーとイギリスジョッキークラブ会長のチャールズ・バンベリー準男爵、そしてスタンリーの義叔父であるジョン・バーゴイン将軍の3人によって、1779年に創設されていたオークスステークスの牡馬版として創設された。 この競馬競走名の由来については、1780年に創始者のダービー伯爵とバンベリー準男爵の間でいずれの名を冠するかをコイントスによって決定したとの逸話がある[2]。ダービー伯爵は創始者のバンベリー準男爵を記念して付けたかったがバンベリー準男爵は片田舎のレースに自分の名を冠されることをよしとせず、双方譲り合ったために最後はくじで決めることになったという[注 1]。 出走条件は3歳限定で、繁殖馬の選定のために行われるので?馬の出走はできない(かつては出走できた時期があったが、優勝したことはない)。1歳時に出走登録を済ませていない馬は、追加登録料を支払わないと出走できない。ダービートライアルステークスなど本競走の試走的な位置付けの競走も存在するが、日本の中央競馬のトライアル競走のようなそれらの競走での上位入線による優先出走権はない。 距離は創設から3年間は1マイルの直線コースで行われ2代目・3代目・現在のコースになると1マイル4ハロン(約2400メートル)に延長されたが1991年に計測された結果、10ヤード程度ほど長いことが判明した。尚、現在の伝統のあるダービーコースは1872年から施行される様になった4代目のコースにあたる。1969年から1994年までは6月の第1水曜日に開催され、以降は6月の第1土曜日に開催されている。 なおウィンストン・チャーチル(第61・63代イギリス首相)が「ダービー馬のオーナーになることは一国の宰相になることより難しい」と述べたというエピソードがあるが、これは後世の創作であることが確認されている。しかし、それは巷間では今なお広く信じられており、ダービーに勝つことの難しさとその名誉を物語っている。なおイギリスでは第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズが実際に首相在任期間中に2頭のダービー馬のオーナーになったことがあるが、そのことを自慢するスピーチを行ったところ首相の地位と競馬の一競走の優勝馬の所有者の地位を同列に扱ったことを不見識と非難された[3]。 現在、世界各国で本競走を模範としてダービーの名を冠した競走が開催されている。詳しくはダービー (競馬)を参照。
概要
歴史1821年のダービーステークス(テオドール・ジェリコー『エプソムの競馬』)
1780年 創設、優勝馬はバンベリー卿の所有馬・ダイオメド(Diomed)で1065ポンド15シリングの賞金を獲得
1787年 サーピーターティーズル(Sir Peter Teazle)がダービー卿の所有馬として初めて優勝
1797年 馬名未登録馬が優勝
1784年 施行距離を1マイルから1マイル4ハロンに延長(2代目ダービーコース)
1828年 キャドランド(Cadland)とザカーネル(The Colonel)が1着同着、後日に決勝レースを施行しキャドランドが勝利
1844年 ランニングレイン事件。1着入線のランニングレイン(Running Rein)が、実は別の4歳馬が替え玉として出走していたことが発覚し失格、2着馬のオーランド(Orlando)が繰上げ優勝。このほかこの競走ではもう1件出走馬の替え玉があったこと、1番人気・2番人気が2頭とも八百長により故意に敗れていたことが露見した[4]。
1846年 競走タイムの計測を施行
1848年 施行コースを変更する(3代目ダービーコース)
1872年 施行距離を1マイル4ハロン29ヤードに延長(現在のコース)
1884年 ハーヴェスター(Harvester)とセントガティエン(St Gatien)がダービー史上初の同着優勝
1901年 競走タイムの計測を1秒表示から1/5秒表示に変更
1909年 イギリス国王・エドワード7世の所有馬・ミノル(Minoru)が優勝
1913年
「確定(all right)」サインが出た後に異議が申し立てられ、審議の結果、1番人気で1位で入線した馬が失格となり、単勝101倍の馬が繰り上がり優勝となった[注 2]。既に当初の発表に基づく優勝の馬券の払い戻しを始めていたブックメーカーもいた。これ以降、イギリスの競馬界は「確定」の用語を使わなくなった[5][6][7]。
競走中、婦人参政権活動家の女性エミリー・デイヴィソン[注 3]が最終コーナー付近に侵入し、たまたま通りかかったイギリス国王・ジョージ5世の所有馬・アンマー(Anmer)の頭絡を掴もうとしてアンマーを転倒させた。騎手のハーバート・ジョーンズは落馬して肋骨骨折の重傷、アンマーは空馬のままゴールに入線した。蹴られ転倒に巻き込まれたデイヴィソンは意識不明で病院に運ばれ、4日後に頭蓋骨骨折で死亡した[5][8][注 4]。