ダーク・ノヴィツキー
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ダーク・ノヴィツキー
Dirk Nowitzki
2019年のノヴィツキー
ダラス・マーベリックス
役職スペシャルアドバイザー
所属リーグNBA
基本情報
愛称Dirty
Tall Baller from the G
ドイツ語Dirk Nowitzki
国籍 ドイツ
生年月日 (1978-06-19) 1978年6月19日(45歳)
出身地バイエルン州ヴュルツブルク
身長(現役時)213cm (7 ft 0 in)
体重(現役時)111kg (245 lb)
キャリア情報
NBAドラフト1998年 / 1巡目 / 全体9位[1]
ミルウォーキー・バックスから指名
プロ選手期間1994年?2019年
ポジションPF / C
背番号歴41
永久欠番マーベリックス  41 
経歴
1994?1998DJKヴュルツブルク(英語版)
1998?2019ダラス・マーベリックス
受賞歴


NBAチャンピオン (2011)

NBAファイナルMVP (2011)

NBAシーズンMVP (2007)

14× NBAオールスター (2002-2012, 2014-2015, 2019)

オールNBAファーストチーム (2005-2007, 2009)

オールNBAセカンドチーム (2002-2003, 2008, 2010-2011)

オールNBAサードチーム (2001, 2004, 2012)

50-40-90クラブ (2007)

NBAスリーポイントコンテスト優勝 (2006)

NBAシューティングスターコンペティション優勝 (2010)

NBAチームメイト・オブ・ザ・イヤー賞 (2017)

NBA75周年記念チーム

No. 41 ダラス・マーベリックス永久欠番

ブンデスリーガシーズンMVP (1999)

ブンデスリーガ得点王 (1999)

FIBAバスケットボール・ワールドカップMVP (2002)

FIBA欧州選手権MVP (2005)

3× FIBA欧州選手権得点王 (2001, 2005, 2007)

6× ユーロスカー年間最優秀選手賞 (2002-2006, 2011)

FIBAヨーロッパ男子年間最優秀選手 (2005, 2011)

11× オール欧州ファーストチーム (2003-2011, 2013, 2014)

9× オール欧州パワーフォワード・オブ・ザ・イヤー (2005-2011, 2013, 2014)

ミスター・ヨーロッパ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤー (2005)

ジルバーネス・ロールベアブラット (2011)

ドイツ年間最優秀スポーツ選手賞 (2011)

ローレウス生涯功労賞 (2020)

NBA通算成績
得点31,560 (20.7 ppg)
リバウンド11,489 (7.5 rpg)
アシスト3,651 (2.4 apg)
Stats  Basketball-Reference.com
Stats  NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten

バスケットボール殿堂入り選手 ( ⇒詳細)
代表歴
キャップ ドイツ

獲得メダル

男子バスケットボール
 ドイツ
ワールドカップ
2002 インディアナポリス
バスケットボール欧州選手権
2005 セルビア&モンテネグロ


ダーク・ヴェルナー・ノヴィツキー(Dirk Werner Nowitzki, ドイツ語発音: [?d??k no?v?tski],  audio[ヘルプ/ファイル]; 1978年6月19日 - )は、ドイツバイエルン州ヴュルツブルク出身の元プロバスケットボール選手NBAダラス・マーベリックス一筋で21年にわたり活躍し、史上最高のパワーフォワードの一人と称され、史上最高のヨーロピアン選手と見なされている[1][2]

身長213cmで[3]、ポジションはセンターパワーフォワードスモールフォワードをこなせる。フットワークの軽さや、ゴール下での強さに加え正確な長距離シュート、ガードのような器用さを備えており、ポストアップからの片足フェイダウェイは芸術の域に達していた[4]。欧州出身初のNBA最優秀選手賞受賞者である。また、2021年にはNBA75周年記念チームに選ばれた[5]

現在はマーベリックスのスペシャルアドバイザーを務めている[6]
生い立ち

1978年、ノヴィツキーは、ドイツ・ヴュルツブルクでハンドボールドイツ代表である父とドイツの女子バスケットボール選手である母の間に生まれた。少年時代はハンドボールテニスに熱中したが、13歳の頃にバスケットボールに転向した。

15歳の時にはドイツのプロバスケットボールリーグの2部に所属するDJKヴュルツブルクの下部チームに参加し、この時ドイツの国際的なバスケ選手ホルガー・ゲシュワイザーの目に留まり、ノヴィツキーはゲシュワイザーから週2?3回の特訓を受けるようになる。ゲシュワイザーの下でトレーニングを始めて2年目、ノヴィツキーはゲシュワイザーからある印象的な質問を受けた。「君は世界の最高峰に挑戦するか、それとも地元の英雄のままでいるか、今ここで決めなければならない。もし君が後者を選ぶなら、もはやそれを阻む者は誰も居ないので、我々のトレーニングは終わりだ。もし最高の舞台でプレイしたいのであれば、我々は毎日特訓をしなければならない」。ノヴィツキーは2日間考えた末に、前者を選び、ゲシュワイザーとの特訓は週2?3回の割合から毎日となり、より激しさを増した。そして1994年の夏、16歳のノヴィツキーは正式にDJKヴュルツブルクの一員となった。
DJKヴュルツブルク

DJKヴュルツブルクに加入した当時のノヴィツキーは、その優れたシュート力よりも恵まれた長身が評価され、センターとして起用された。しかし、最初のシーズンである1994-95シーズン、チームは12位中6位と期待外れの成績に終わり、またノヴィツキーもレベルの高さに中々適応できず[7]、ベンチを温める時間が多く、また学校の成績が下降してしまい、バスケよりも勉強に精を出さなければならなかった。

1995-96シーズンには先発に昇格し、フィンランド人のスター選手、マルティ・クイスマとプレイすることで一気に才能を開花させ、平均得点を二桁に乗せた。DJKの試合に訪れたドイツ代表チームのコーチ、ダーク・バウアーマンはノヴィツキーのプレイを見て「ドイツではこの10年、あるいは15年で最高のバスケットボール選手」と賞賛した。チームはノヴィツキーの活躍で好調のシーズンを送ったが、BGルードヴィヒスブルクとの試合に敗れ、1部への昇格はならなかった。1996-97シーズンにはクイスマがチームを去ったため、ノヴィツキーはチームのエースに昇格、平均19.4得点をあげたが、チームを1部に昇格させることはできなかった。

1997-98シーズン、学校を卒業して19歳となったノヴィツキーはDJKでプレイしながら兵役にも就かなければならず、選手と軍の訓練を両立させることに苦労したが、ノヴィツキーは身長が211cmまで伸び、成績も平均28.2得点まで伸ばすと、ついにDJKを1部リーグに昇格させ、ドイツバスケット誌選出の年間最優秀選手に選ばれた。

ノヴィツキーの活躍はドイツ国外にも伝えられ、1996年にはスペインFCバルセロナからオファーを受けており、その1年後、ナイキ主催の「フープ・ヒーローズ・ツアー」では当時のNBAの現役スーパースター、チャールズ・バークレースコッティ・ピッペンと対戦する機会を恵まれ、30分のエキシビションゲームでノヴィツキーはバークレーの上からダンクを決めた。これに驚いたバークレーは「この子は天才だ。もしNBAに来たいなら俺に電話してこい」と言ったという。

ノヴィツキーが世界的に注目を浴びたのは1998年3月に行われたナイキ・フープサミット(全米ジュニア選抜 vs 世界ジュニア選抜)である。ノヴィツキーはこの試合で33得点14リバウンドをあげ、ラシャード・ルイスアル・ハリントンらがいた全米選抜チームを破り彼の存在はNBAスカウト陣の注目の的となった。
ダラス・マーベリックス
キャリア初期NBAでは一貫してマーベリックスでプレイしている

ノヴィツキーがNBA入りした年、NBAはロックアウトによるシーズン短縮という初めての事態を経験。ノヴィツキーが焦がれたルーキーシーズンは例年より4ヶ月近くも遅れて始まった。ノヴィツキーは先発パワーフォワードに抜擢されるも、まだ線の細かったノヴィツキーはNBAのフィジカルなプレイに馴染めず、平均20.4分の出場で8.2得点3.4リバウンドの成績に終わった。特にディフェンスでは簡単に相手に押し負けてしまい、ファンからはディフェンスができない(Dがない)と揶揄する意味で"Irk Nowitzki"と呼ばれた。ノヴィツキーにとっては辛い時期で、後に振り返って「とても失望していて、ドイツに帰ろうとも思った。ドイツリーグからNBAへのジャンプは、開くかどうか分からないパラシュートを背負って飛行機から飛び出すようなものだった」と語っている。
キューバンとビッグスリー

2年目の1999-00シーズン、ネルソンはノヴィツキーのパス技術をより活かすためにポイントフォワードに起用し、ノヴィツキーも徐々に本来の実力を発揮するようになった。最も重要な動きはコートの外で起こった。ノヴィツキーが加入した当時のマブスは弱小チームで、長年低迷していたが、この年にIT産業で財を成したマーク・キューバンがマブスを買収し、球団オーナーとなると、それまで貧乏球団だったマブスにキューバンの豊富な資金が流れるようになった。チームの将来に明るい兆しが見えたことでノヴィツキーも急成長を遂げ、このシーズンは17.5得点6.5リバウンドと大きく数字を伸ばし、MIP投票では2位となった。またノヴィツキーの代表的な武器となるスリーポイントシュートの成功率、試投数、成功数を大幅に増やしてことでNBAオールスターウィークエンドではスリーポイント・シュートアウトの参加選手に選ばれ、ノヴィツキーはコンテスト史上最長身の選手となった。チームもエースのマイケル・フィンリーにノヴィツキー、セドリック・セバロスに率いられ、前年の19勝31敗から40勝42敗と勝率を伸ばしたが、プレーオフには届かなかった。

2000-01シーズンには21.8得点9.2リバウンドと一流選手の数字を残し、オールNBA3rdチームに初選出される。またシーズン通算3P成功数151本101ブロックは、3P成功数100本100ブロック以上を達成した選手として史上2人目だった。ノヴィツキーにフィンリー、そしてこのシーズンに大きく成長したスティーブ・ナッシュビッグスリーと称され、彼らに率いられマブスは53勝29敗と大きく躍進し、11年ぶりのプレーオフ進出を果たした。初のプレーオフでは1回戦でジョン・ストックトンカール・マローン擁するユタ・ジャズを破ると、カンファレンス準決勝では生涯のライバルとなるサンアントニオ・スパーズと対決する。スパーズはマブスと同じテキサス州に本拠地を置き、また、後にノヴィツキーとトップパワーフォワードの座を争うことになるティム・ダンカンが居るなど、両者がライバルとして見られるには十分な要素が揃っていた。ノヴィツキーはシリーズ中に風邪をこじらせてしまい、さらに試合中の接触で歯を折ってしまうなど散々な内容でチームも1勝4敗で敗退してしまうが、第4戦では42得点をあげてシリーズ唯一の勝利に貢献している。オフには大盤振る舞いのキューバンオーナーのもと、6年9000万ドルの大型契約を結んだ。これはドイツのスポーツ選手としてはミハエル・シューマッハに次ぐ第2位の収入だった。デビュー当時の「ソフト」というイメージを排し、ゴール下でも強さを発揮するノヴィツキー

2001-02シーズン、ノヴィツキーは23.4得点9.9リバウンドの成績を残し、オールスターに初出場を果たし、オールNBAチームでは2ndチームに選ばれる。チームは新たにシックスマンとしてニック・ヴァン・エクセルを加え、57勝25敗まで勝率を伸ばし、プレーオフ1回戦ではケビン・ガーネットミネソタ・ティンバーウルブズをスイープ。


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