ダーウィン空襲
第二次世界大戦、太平洋戦争中
1942年2月19日、オーストラリア本州ダーウィンで日本軍の第一次空襲の際に、搭載していた火薬と弾薬が引火して大爆発を起こした艦船の写真。手前に確認できるのは空襲を逃れたオーストラリア軍の掃海艇デロレーヌ。
時1942年2月19日
場所オーストラリア、ダーウィン北部
結果大日本帝国の勝利
衝突した勢力
オーストラリア
アメリカ 大日本帝国
指揮官
デイヴィッド・ブレイク
フレデリック・シャーガー 南雲忠一
山口多聞
淵田美津雄
戦力
航空機 31機
対空機関銃
ダーウィン空襲 (英語: Bombing of Darwin)、別名ダーウィンの戦い (英語: Battle of Darwin)[4]は、第二次世界大戦中の1942年2月19日、日本海軍がオーストラリア本土に対して行った最初にして最大規模の空襲。オーストラリア史上で最大規模の他国勢力による攻撃である。
計242機の日本軍機が2回に分けてダーウィン湾の市街地、艦船そして市街地付近に建設された2つの飛行場を攻撃した。攻撃は日本軍のティモール、ジャワ島侵攻を阻止しようとする連合国軍がダーウィンの飛行場を基地とするのを妨害する目的で行われた。
ダーウィンは攻撃の規模に比べると防備が軽く、日本軍はほとんど損害を被らずに連合国に重大な被害を与えた。ダーウィンの都市部も空襲により被害を受け、非戦闘員の死者も多数出た。攻撃の直後に、ダーウィンの非軍属市民の半分以上が完全に街を離れた[5]。この時に日本軍が行った2回の空襲は、1942年から43年にかけて100回以上日本がオーストラリア軍に対して行った空襲のうち、一番早く、かつ大規模に行われたものであった。 1942年1月24日、第二航空戦隊はアンボン空襲を行なった[6]。この後、第二航空戦隊司令官山口多聞少将は、攻略目標を攻撃するより敵の増援兵力の集中点を攻撃するほうがよいとしてポートダーウィン攻撃を提案[6]。これは取り入れられ、クーパン攻略の前にポートダーウィン空襲が実施されることとなった[7]。
空襲まで