ダヴィド・ベン=グリオン
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この項目では、イスラエルの政治家について説明しています。

センチュリオンイスラエル国防軍が改修した戦車については「ショット (戦車)」をご覧ください。

テルアビブにあるイスラエルの国際空港については「ベン・グリオン国際空港」をご覧ください。

イスラエル政治家ダヴィド・ベン=グリオン??? ??-??????
ダヴィド・ベン=グリオン
生年月日1886年10月16日
出生地 ロシア帝国、プロニスク
没年月日 (1973-12-01) 1973年12月1日(87歳没)
死没地 イスラエルエルサレム地区エルサレム
出身校ワルシャワ大学
所属政党マパイ
ラフィ
ナショナル・リスト
初代首相
内閣第1次ベン=グリオン内閣
在任期間1948年 - 1954年
大統領ハイム・ヴァイツマン
第3代首相
内閣第2次ベン=グリオン内閣
在任期間1955年 - 1963年
大統領イツハク・ベンツビ
初代国防大臣
内閣第1次ベン=グリオン内閣(首相兼任)
在任期間1948年 - 1954年
第3代国防相
内閣第2次ベン=グリオン内閣(首相兼任)
在任期間1955年 - 1963年
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ダヴィド・ベン=グリオン(ヘブライ語: ??? ??-??????‎、 David Ben-Gurion[ヘルプ/ファイル]、1886年10月16日 - 1973年12月1日)は、イスラエル政治家首相(初代・第3代)を務めた。

ポーランドのプロニスクで生まれ、パレスチナ移住後はユダヤ系住民のイギリス軍への参加を呼びかけると共に、ナチスの弾圧によって多くのユダヤ系難民がパレスチナへ押し寄せる様になると、これを規制しようとするイギリス当局と折衝して難民受け入れに尽力した。

1947年国際連合パレスチナ分割を決議するとメナヘム・ベギンら率いるイルグンなど過激強硬派のテロや反発を抑えながら、独立への準備を進め1948年5月14日イスラエルの独立を宣言した。
生涯
生い立ちとパレスチナでの生活

ベン=グリオンはダヴィド・グリューン (David Grun) としてポーランドのプロニスク(当時ロシア帝国領)で生まれた。ワルシャワ大学に在学中、東ヨーロッパでの反ユダヤ主義の流行と、ユダヤ人の虐殺(ポグロム)に衝撃を受け、彼は熱烈なシオニストおよび社会主義者としてポアレ・ツィオン運動[注釈 1]の指導者となった。ベン・グリオン国際空港にあるベン=グリオンの像1929年、テルアヴィヴの家にて。ベン=グリオンの家族。左から、ダヴィド、パウラ(妻)、ダヴィドの膝の上にいるのがレナナ(末娘)、右にゲウラ(娘)、アヴィグドール・グリューン(父)、アモス(息子)。

1906年9月7日に13人の仲間と共にパレスチナヤッフォへ移り住む[1]。パレスチナでは最初、オレンジ農業などを行っていたが、僚友イツハク・ベンツビらが参加していたハショメルHaShomer(パレスチナ入植者による自警組織)に志願し、行動するようになる。1912年にベンツビとともにイスタンブール大学で法律を学ぶためオスマン帝国イスタンブールへ移る。

彼は最初労働シオニストの新聞『アハドゥト(労働)』で編集部員として働き、政治活動を始めると共にヘブライ語の名前ベン=グリオン (??? ?? ??????) を使い始めた[2]。この名は中世の歴史家ヨセフ・ベン・グリオン(Yosef ben Gurion)から取られた。

しかし、シオニスト会議の出席者名簿の中に2人の名前を見つけたジェマル・パシャによって、オスマン帝国統治下のパレスチナにおける政治活動を理由に、オスマン帝国を永久追放されることが決まった。拘束期間中は、学生であったこともあり、丁重に扱われたという[3]

1915年ニューヨークに移住し、後の妻となるロシア生まれのパウラ・ムンワイスと出会う。彼らは1917年に結婚する。彼らの間には3人の子供がいた。1917年11月2日に発せられたバルフォア宣言も米国で一報を受けている。1918年になると、イギリス陸軍のユダヤ人部隊に志願した。一家は第一次世界大戦イギリス委任統治領となったパレスチナに帰還した。

ベン=グリオンは後に、当時のパレスチナでの生活について「自力で土地を開拓しなければ、土地は我々のものにならないので、ユダヤ人の村でアラブ人が働くのは危険だと考えていた。だが、我々はそこでアラブ人と衝突したことは一度もなく、アラブ人の憎しみを買うこともなかった」と書いている[4]
シオニストのリーダー1918年、イギリス陸軍のユダヤ人部隊に志願したベン=グリオン

マルクス主義[5]でポアレ・ツィオンの創設者だったベル・ボロコフ[注釈 2]の死後、ポアレ・ツィオンは左派と右派に別れ、1919年にベン=グリオンは、彼の友人であり労働シオニズムの右派勢力の指導者だったベルル・カツネルソンと共に、ポアレ・ツィオン右派を中心にアフドゥト・ハアヴォダ(Ahdut HaAvoda)を立ち上げ、1919年にベン=グリオンはリーダーとなった。1920年12月には「ヒスタドルート Histadrut」(シオニスト労働同盟パレスチナ)を結成し、後にその書記長となって、イギリス統治下のユダヤ人社会での労働者の地位向上に注力した。また、自衛組織のハガナーの結成にも関わりアラブ人によるキブツの襲撃に軍事的に対抗した。

1930年にはヒスタドルートを基盤として、ハポエル・ハツァイル(Hapoel Hatzair、青年労働者、1905年にA. D. ゴードンにより創設された)と合同し、より労働党右派の傾向の増した「マパイ党[注釈 3] 」を結成して政治的影響力を強め、ベン=グリオンは指導者となった。マパイは左派の機関だったが、他の派閥ほど左寄りではなかった。労働シオニズムの左派の代表としてはマパム(Mapam)があったが、労働シオニズム右派は世界シオニスト機構の議会において優勢化する傾向があった。1935年にはベン=グリオンはパレスチナのユダヤ機関の執行委員会の議長となり、役職は1948年のイスラエル建国まで続いた。

1936年から1939年にかけてのパレスチナでのアラブ人暴動の間、ベン=グリオンは『Havlagah』と呼ばれるハガナーやその他の集団にアラブ人のユダヤ市民に対する攻撃への報復はせず、自衛に専念するよう呼びかける抑制政策を行った。

1937年のピール委員会において、パレスチナをユダヤ人とアラブ人の土地に分ける分割案が出されると、ベン=グリオンはこれを支持した。この判断は分割案に反対するゼエヴ・ジャボチンスキーとの論争を巻き起こし、結果としてジャボチンスキーの支持者らはハガナーから分離し、ベン=グリオンの政策を無視することになる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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