『ダヴィデ像』イタリア語: David
作者ドナテッロ
製作年1440年頃
種類ブロンズ
寸法158 cm (62 in)
所蔵バルジェロ美術館、フィレンツェ
『ダヴィデ像』(ダヴィデぞう、伊: David)は、ルネサンス初期のイタリア人彫刻家ドナテッロが制作した彫刻。1408年から1409年に制作された大理石のダヴィデ像と、1440年ごろに制作されたブロンズのダヴィデ像の2点があり、どちらもフィレンツェのバルジェロ美術館が所蔵している。美術史上からはブロンズ製の『ダヴィデ像』がより重要視されている。 『ダヴィデ像』は、『旧約聖書』の『サムエル記』17章に記された、ダヴィデとゴリアテのエピソードをモチーフとした彫刻作品である。『サムエル記』によれば、イスラエル軍とペリシテ軍との戦争において、ペリシテ軍最強の巨人兵ゴリアテが、自分との一騎討ちで戦争全体の帰趨を決しようと何度もイスラエル軍を挑発した。イスラエル兵はゴリアテを恐れ、相手をしようとする者は誰もいなかったが、年少であったためにまだ兵役に就いていなかった羊飼いのダヴィデがゴリアテとの戦いに名乗りを上げる。イスラエル軍を率いていたサウル王はダヴィデに鎧と剣を与えたが、ダビデは兵士としての訓練を積んでいないとしてこれらを断り、投石器を手にしてゴリアテに対峙した。そしてダヴィデが放った石がゴリアテの頭部に命中してゴリアテを倒し、ダヴィデはゴリアテの剣を奪い取ってその首を落とした。その後、ペリシテ軍は約束を守って戦場から撤退したためにイスラエル軍は救われた。ダヴィデの特別な力は神からの恩恵であり、善は悪に打ち勝つということを描写したエピソードである[1]。 ドナテッロが1440年ごろに制作したブロンズ製の『ダヴィデ像』は、ルネサンス期に制作された最初の自立するブロンズ彫刻であり、古代ギリシア・ローマ時代以降で制作された最初の男性裸像として有名な作品である。ダヴィデは謎めいた微笑をうかべ、倒したばかりのゴリアテの首を左脚で踏みつけている。若きダヴィデはほぼ完全な裸体で、身につけているのは月桂樹で飾られた兜と長靴、そしてゴリアテから奪い取った剣のみである。 この『ダヴィデ像』はメディチ家の依頼で制作されたもので、完成後はフィレンツェのメディチ・リカルディ宮殿 (en:Palazzo Medici Riccardi
『旧約聖書』のダヴィデとゴリアテ
ブロンズの『ダヴィデ像』1440年ごろにドナテッロが制作したブロンズ製の『ダヴィデ像』。
バルジェロ美術館(フィレンツェ)
ジョルジョ・ヴァザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』には、『ダヴィデ像』がメディチ・リカルディ宮殿中庭中央の、デジデーリオ・ダ・セッティニャーノがデザインした円柱の傍らに置かれており、円柱には『ダヴィデ像』が政治的記念碑としていかに重要な意味を持つかという銘が刻まれていたという記述がある。この銘は「勝利は祖国を守護する者すべてにもたらされる/神が邪悪な敵を打ち砕く/見よ、大いなる暴君を妥当した少年を。勝利は民とともに (Victor est quisquis patriam tuetur/Frangit immanis Deus hostis iras/En puer grandem domuit tiramnum/Vincite cives) というものだった[3][4]。この『ダヴィデ像』に政治的意図があったことは多くの研究者が認めているが、こめられているであろう正確な意図に関しては多くの見解があり、定説となっているものはない[5]。
ほとんどの研究者が『ダヴィデ像』の依頼主はコジモ・デ・メディチであるとしているが、『ダヴィデ像』の制作年度ははっきりとせず、議論の的となっている。1420年代から1460年代まで様々な説があり、そのなかでも主流となっているのは、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオが設計したメディチ・リカルディ宮殿が建築された1440年代とする説である[6]。図像学的観点からすると、このブロンズ製『ダヴィデ像』は大理石製『ダヴィデ像』の延長線上にある。若き英雄ダヴィデは片手に剣を持ってたたずみ、その足元には刎ねたゴリアテの首が転がっている。しかしながら、外観としては二つの『ダヴィデ像』は全くの別物である。ブロンズ製の『ダヴィデ像』は兜と長靴以外全裸で、ひどく華奢な体つきをしており男性的な印象はまったく与えない。頭部の表現は古代ローマ皇帝ハドリアヌスが寵愛した彫刻家アンティノウスの影響を受けているといわれている。メアリー・マッカーシーが「服装倒錯であり、性的倒錯者を魅了する両性具有」と呼んだダヴィデの身体は、ゴリアテの巨大な剣と対照的に肉体を表現することによって、ダヴィデがゴリアテを打ち負かしたのは身体的能力ではなくすべて神の意思であるということを表し、重武装の巨人兵ゴリアテとは対極である全裸の少年ダヴィデが神の存在をさらに明確にしているのである。また、この彫刻のダヴィデにはユダヤ教徒であれば通例であるはずの割礼がなされていないが、これはルネサンス期のイタリアで制作された男性裸像をモチーフとした美術品に共通する特徴である[7]。
『ダヴィデ像』をめぐる論争脚部の後方からの画像。
『ダヴィデ像』に関すると思われる制作当時の言及は残っていないが、フィレンツェの政庁舎たるヴェッキオ宮殿に移設されるまでの1490年代には様々な意見があった。16世紀初頭のフィレンツェ行政庁の役人が『ダヴィデ像』がやや不安定な印象を与えるとして「中庭にあるダヴィデ像は完璧とはいえない。右脚が下品だ」と言及している記録がある[8]。16世紀半ばにはヴァザーリが『ダヴィデ像』に触れ、非常に写実的で実在のモデルがいるに違いないとしている。20世紀及び21世紀の美術史家たちの間では、この『ダヴィデ像』の解釈の仕方について多くの議論が展開されている。
『ダヴィデ像』がもつ不思議な雰囲気は様々に解釈されてきた。なかにはドナテッロは同性愛者で、自身の性的嗜好をこの作品を通じて公表したのだというものや[9]、当時のフィレンツェ社会では珍しくなかった同性愛を表現しているが、ドナテッロ自身の性的嗜好とは無関係だというものもある[10]。古代ギリシア・ローマでは同性愛はごく普通のことで、同性愛のほうがより崇高な愛情であると信じられていた。しかしながら『ダヴィデ像』が制作されたルネサンス期の西欧では同性愛は違法であり、当時のフィレンツェでも14,000人以上が法を犯したとして告発されている[11]。このため、当時は自身が同性愛者であるとほのめかすことすら危険な行為だった。他の解釈として、『ダヴィデ像』はドナテッロがそれまでにない革新的な男性裸像を表現しており、古代の彫刻の単なる模倣ではなく、ルネサンス美術における男性裸像の芸術性を追求しようと試みた作品であるとする説もある[12]。いずれにせよ、ドナテッロの『ダヴィデ像』はそれまでの伝統的な彫刻からはかけ離れたもので、穏健な美術品とは程遠い作品となっている。
モチーフに対する議論ダヴィデが踏みつけるゴリアテの首。
1939年にイェネ・ランジーが、ギリシア・ローマ神話の解釈を援用すると、着用している兜はギリシア神話のヘルメスの象徴であり、この彫刻のモチーフは昔から言われているようなダヴィデではないのではないかという疑義を呈した。以降現在に至るまでこのランジーの説に賛同する研究者は多く、この彫刻を『ダヴィデ=マーキュリー像』(マーキュリーはヘルメスと同一視されるローマ神話の神)と呼ぶこともある[13]。もしこの彫刻がダヴィデではなくヘルメス(マーキュリー)を表現しているのであれば、左脚で踏みつけているのはゴリアテではなく、ギリシア神話の巨人アルゴスの首ということになる。しかしながらこれらの推測はおそらく正しくない。15世紀のあらゆる記録が、この作品はダヴィデの彫刻だと断定しているのである[14]。