ダン・レアリー
Dun Laoghaire
町
観覧車からのダン・レアリーの眺め
歴史的人口
年人口±%
18211,505?
18315,736+281.1%
18417,229+26.0%
185110,458+44.7%
186112,469+19.2%
187116,378+31.3%
188118,586+13.5%
189117,352?6.6%
190117,377+0.1%
191116,941?2.5%
192618,987[14]+12.1%
193639,785[13]+109.5%
194644,674[11]+12.3%
195147,920[5]+7.3%
195647,552[6]?0.8%
196147,792[7]+0.5%
196651,772[8]+8.3%
197151,373[9]?0.8%
187954,244[10]+5.6%
198154,496[10]+0.5%
198654,715[12]+0.4%
199155,540[12]+1.5%
[2][3][4]
ダン・レアリー(Dun Laoghaire)は、アイルランドのダブリン県ダン・レアリー=ラスダウン市に位置する町。 ダブリン市から南に12kmに位置する町、ダン・レアリー([d?n ?l??ri]
概要
ダン・レアリーの港湾はかつてウェールズのホーリーヘッドとフェリーで結ばれ、アイルランドからイギリスへの主要な海上交通の入口となっていた。近くのサンディコーブにはジェイムス・ジョイスタワーとして知られるマーテロー塔がありジェイムズ・ジョイスの資料館となっている。
地名海洋博物館のステンドグラスの窓のロガー
ダン・レアリーは「レアリーの砦」を意味する[15]。これは、5世紀のアイルランド上王であるロガー・マック・ニール(Loegaire mac Neill、現代の綴り:Laoghaire Mac Neill)を指しており、イギリスとガリアを襲撃する海の基地としてこの場所を選んだ。また、この土地で聖パトリックにキリスト教の布教活動を許したことで知られる。海岸には当時の要塞の痕跡があり、一部は海事博物館に保管されている。
「Dun Laoghaire」と綴られているのが、現代のアイルランドの正書法での正式名称である。時節、非公式に「Dun Laoire」と綴られている[16][17]。英語化した「Dunleary」の古い綴りも見られるが[16][18]、当町の英語での発音に近い。
歴史1895年頃、キングスタウンとして知られているダン・レアリーの港湾
ダン・レアリーの起源は一般に、レアリーに属していた可能性が高い砦に遡ると推定されている[15]。1728年の地図は、古い港にある小さな漁村を示し、「Dunlary」として示されている。当時、この地域は岩だらけの牧草地で、採石場がいくつかあった[19]。
1807年11月18日から19日の夜にかけて、ダブリン港を出発した2隻の軍艦、プリンス・オブ・ウェールズ号とロッチデール号がブラックロックとダン・レアリーの間の岩に衝突し、400名以上が死亡した。これにより、ダブリン付近に新たな港を建設するという既存の計画が進められた。1816年までに、現在の「ウェストピア(西桟橋)」と呼ばれる堤防の建設を認可する法律が可決された。1821年にイギリス王のジョージ4世が建設中の新しい港を訪れ、ダン・レアリーの町名は「キングスタウン」に改称された。当町は1920年にアイルランド自由国の成立に向け、以前の名称に戻った。
1834年に開通したダブリン市内からキングスタウンへ向かうアイルランドの最初の鉄道は、西桟橋の近くを終点とした。これにより、人気のダブリン郊外となり、住宅街の建設につながった。1844年までに、ロバート・マレットの設計によるドーキー大気圧鉄道がキングスタウンをドーキーに接続し、さらなる発展をもたらした。ドーキー大気圧鉄道は1854年に廃止されたが、鉄道の延長に置き換えられ、その後ロスレアのフェリーポートに延長された。ダブリンから鉄道が開通したことで、キングスタウンはビクトリア朝時代の海辺のリゾートになった。
1890年、キングスタウンの町の委員が枯渇した採石場の跡地にピープルズ・パークが開園された。1900年までに、町の中心部は混雑し、通りを広げる措置がとられた。この工事により、パトリック通りからマルグレイブ通りへのジョージズ通りの店舗間口の解体、および新しい間口への交換が約4.5m後退した。マリン通りとジョージズ通りの角にある小店も取り壊された。
モンクスタウンとブラックロックを経由するダブリンへの主要道路は、1932年までダブリン市への唯一の道路接続だった。同年、聖体大会は何千人もの訪問者をダブリンにもたらし、ダン・レアリーを通って来る計画を明らかにした。しかし、この道路は不適切と見なされ、最終的には海岸道路がいくつかの短い通りを接続し、庭園を閉鎖する道路が建設された。これが現在のシーポイント通りである。
ダン・レアリーは第二次世界大戦中にドイツの爆弾に襲われ、そのうちのいくつかはダン・レアリーの境目にあるピープルズ・パーク付近のロスミーン・ガーデンズ通り、ロスミーン・パーク通りに落とされた。