ダン・デュリエ(Dan Duryea , 1907年1月23日 - 1968年6月7日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ホワイト・プレインズ出身の俳優。第二次世界大戦後の最も著名な悪役俳優の一人である[1]。 1907年1月23日にアメリカ合衆国のニューヨーク州ホワイト・プレインズにて、繊維のセールスマンとして働くリチャード・デュリエの息子として生まれた[1]。早くから演劇の世界に興味を示し、故郷の通っていた高校では演劇部に所属していた[2]。コーネル大学では英語を専攻し、フランチョット・トーンの後任として大学の有名な演劇協会の会長に就任した[1]。より安定したキャリアを望んだ両親の要求に屈し、演劇を諦めて大学卒業後は広告業界で6年間働いた[1]。しかし、仕事のストレスから20代後半に軽度の心臓発作を起こしてしまい[2]、ほぼ1年近く寝たきりの状態が続いた[3]。医師からは広告業界の仕事を辞めて、ストレスの少ない仕事を新たに見付けるように忠告された[4]。 デュリエは大好きな演劇に戻ることを決めた。1934年にニューヨークで撮影されたアルゼンチン映画『エル・タンゴ・エン・ブロードウェイ
生い立ち
俳優としての経歴『飾窓の女』(1944年)の一場面『スカーレット・ストリート』(1945年)の一場面。ジョーン・ベネットとともに
1940年代も終盤に差し掛かると、デュリエは自分の演技スタイルを確立した。『黒い天使(英語版)』(1946年)や『ワン・ウェイ・ストリート(英語版)』(1950年)のように思いやりのある役も時には演じたが、『飾窓の女』(1944年)、『スカーレット・ストリート』(1945年)、『裏切りの街角』(1949年)、『トゥー・レイト・フォー・ティアーズ(英語版)』(1949年)のようなフィルム・ノワールでは小馬鹿にした笑みを浮かべる不気味な悪役を演じ、西部劇にも数多く出演した[5]。1946年には最も有望な「明日のスター」第8位に選出された[6]。演じる役柄の印象からアメリカ国民には女性に対する暴力もいとわないならず者としての評価が定着し、彼を好む女性の多くがそのセックスアピールの虜になった。デュリエは「私が女の子を怒らせると、毎度ファンレターの数が増える」と述べている[3]。
デュリエはハリウッドスターに対する嫌がらせを繰り返した。ゲイリー・クーパーが主演する映画では『教授と美女』(1941年)で敵対する悪党の子分の役を、『打撃王』(1942年)で素質を認めようとせずに嫌味を言うスポーツ記者の役を、そして『無宿者(英語版)』(1945年)では盲撃ちする殺し屋の役をそれぞれ演じている。また、エドワード・G・ロビンソンが主演する映画でも『飾窓の女』で繰り返し恐喝する役を、『スカーレット・ストリート』で絵画を盗む役を演じている[2]。
晩年に低予算の西部劇作品『アパッチ大襲撃(英語版)』(1964年)と『ガンファイターの挽歌(英語版)』(1965年)の2作品で、息子で同じ俳優のピーター・デュリエ(英語版)との親子共演を果たした[1]。
デュリエは1950年代に入ると、テレビ俳優の仕事を中心に活動するようになった[2]。1952年製作の26話構成のテレビシリーズ『チャイナ・スミス(英語版)』では、危険と興奮の場面に毎週遭遇するシンガポール在住の傭兵として主役のチャイナ・スミスを演じた[1]。『トワイライト・ゾーン』の第3話「運という名の男(英語版)」(1959年)では、アルコール依存症から落ちぶれてしまったガンマンとしてアル・デントン役で出演した[7]。『ペイトンプレイス物語』にも、1967年から翌1968年まで怪しげな詐欺師としてエディ・ジャックス役で59のエピソードに出演した[2][8]。