ダン・セラフィニ
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ダン・セラフィニ
Dan Serafini

基本情報
国籍 アメリカ合衆国 
出身地カリフォルニア州サンフランシスコ
生年月日 (1974-01-25) 1974年1月25日(50歳)
身長
体重6' 1" =約185.4 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席左投右打
ポジション投手
プロ入り1992年 MLBドラフト1巡目
初出場MLB / 1996年6月25日
CPBL / 2002年8月21日
NPB / 2004年4月12日
最終出場CPBL / 2002年8月29日
NPB / 2007年5月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


セラ高校

スタンフォード大学

ミネソタ・ツインズ (1996 - 1998)

シカゴ・カブス (1999)

サンディエゴ・パドレス (2000)

ピッツバーグ・パイレーツ (2000)

中信ホエールズ (2002)

モンテレイ・サルタンズ (2003)

シンシナティ・レッズ (2003)

千葉ロッテマリーンズ (2004 - 2005)

オリックス・バファローズ (2006 - 2007)

コロラド・ロッキーズ (2007)

モンテレイ・サルタンズ (2008 - 2009)

ブリッジポート・ブルーフィッシュ (2010)

モンテレイ・サルタンズ (2011 - 2012)

アグアスカリエンテス・レイルロードメン (2012)

ブリッジポート・ブルーフィッシュ (2012)

キンタナロー・タイガース (2013)

国際大会
代表チーム イタリア
WBC2009年2013年
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ダニエル・ジョゼフ・セラフィニ(Daniel Joseph Serafini, 1974年1月25日 - )は、アメリカ合衆国出身のプロ野球選手投手)。イタリア系アメリカ人である。

サーフィンが趣味で、その事と自らの名前にかけたニックネームはサーフ。台湾球界での登録名は、丹尼。
経歴
ロッテ入団前

2000年までに、メジャー4球団に在籍。2002年には台湾で、2003年にはリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルシンシナティ・レッズでプレーした[1][2]

また、2002年は当初韓国プロ野球ハンファ・イーグルスと契約していたが、当時のKBOの外国人選手獲得における規約に抵触した契約であったことが発覚し、契約破棄となった[3]
ロッテ時代

2004年1月31日NPB千葉ロッテマリーンズへ入団。主にリリーフとして起用後、ネイサン・ミンチー離脱後は先発ローテーションに加わる。9月9日の対ダイエー戦で、死球に激高したフリオ・ズレータとマウンド上で乱闘となり、負傷した挙句双方退場となる。

2005年はシーズンは1年を通して先発ローテーション入りして11勝を挙げ、チームにとって1995年以来10年ぶりとなるパシフィック・リーグレギュラーシーズンAクラス入り(2位)に貢献した。また登板間隔が空いた時には中継ぎも務める。オールスターゲーム終了後は左足を負傷しボビー・バレンタイン監督曰く「投球はできるが、走れない」状況で、ベースカバーもほとんどままならなかった。同年チームはパ・リーグのレギュラーシーズンは2位で終えたが、同1位である福岡ソフトバンクホークスとのリーグ優勝を賭けたプレーオフ第2ステージで、セラフィニは2度杉内俊哉と投げ合い1勝を挙げ、同プレーオフ、そし1974年以来となるリーグ優勝に貢献。日本一を決めた阪神タイガースとの日本シリーズ第4戦でも勝利投手となる。シーズンオフにロッテは交渉を求めたが12月5日自由契約選手となった。
オリックス時代

ロッテ退団後の2005年12月16日年俸150万ドル(1億7200万円)の1年契約でオリックス・バファローズと契約する。2006年は左肩痛の影響で開幕から調子が上がらず、5月1日に治療のため一時帰国。全治1ヶ月の臍ヘルニアのため9月8日に帰国し、再来日することなく、7試合出場で0勝4敗。

2007年は、3月29日の対北海道日本ハムファイターズ戦で7回1/3を無失点に抑えて移籍後初及び2年ぶりの勝利を挙げる。その後も先発ローテーションに入るが、5月13日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で4回途中7失点KOされ、その際に右手親指を骨折して登録抹消され手術のため帰米。6月29日に再来日するが、7月14日にオリックスから解雇が発表された。9試合の登板で2勝5敗・防御率5.40だった。
オリックス退団後

オリックス退団後はコロラド・ロッキーズとマイナー契約を結び、2007年9月にメジャーに復帰したが、その年限りで解雇された。11月27日、薬物規定に違反したとして50試合の出場停止処分を科せられた。

2009年は、第2回WBCイタリア代表に選出され、3月9日のカナダ戦で先発し、勝利投手となる。大会終了後はリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルのモンテレー・サルタンズに所属し、4月13日に先発し5回5失点で敗戦投手となり、この試合をもって解雇される。

2010年独立リーグアトランティック・リーグブリッジポート・ブルーフィッシュに所属し、2011年に再びリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルのモンテレイ・サルタンズに移籍する。


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