この項目では、造園家、ランドスケープアーキテクトについて説明しています。心理学者については「ダン・カイリー (心理学者)」をご覧ください。
ジェファーソン国立発展記念館にあるレリーフ ミズーリ州セントルイスのジェファーソン国立拡張公園の敷地 コロラド州にあるエアフォース・アカデミーのエアーガーデンの南側のエンド ワシントンD.C.のベンジャミン・バネカーパーク(2011)
ダン・カイリー、ダニエル・アーバン・カイリー(英: Daniel Urban Kiley、1912年9月2日 - 2004年2月21日)は、アメリカ合衆国の造園家、ランドスケープアーキテクト/環境デザイナー。幾何学的な構成手法で、シンメトリーからアシンメトリーにいたるまでの古典的構成を近代建築の作品に生かした。またケビン・ローチやエーロ・サーリネンら建築家と協働し多くの作品を生み出した。 1912年、マサチューセッツ州ボストン近郊のロックスバリーに生まれる。1932年から1938年まで、ワーレン・H・マニングオフィスに勤務しランドスケープデザインを取得する。入所した当初は年季奉公であったが、3年目からは事務所のチーフデザイナーとまでになる。1936年から1938年にかけては、ハーバード大学デザイン大学院に特別聴講生(特待生)として在籍、ガレット・エクボらとともにランドスケープアーキテクチュアのモダニズム運動に着手。 1938年、マニングの死去に伴い事務所が閉鎖される。事務所の先輩で都市計画家のエルバート・ビーツとともにワシントンD.C.に移り、住宅公社に勤務する。1940年から1942年にかけてはワシントンD.C.とニューハンブシャー州フランコニアで設計事務所を主宰する。事務所をこの地で開設していたのはスキー目当てであり、この時期実際に夫人とともにスキーのインストラクターも務めていたほか、シャーロットにオフィスを開設した後も冬はクロスカントリーに通っていたという。 1942年に徴兵され、アメリカ合衆国戦略局デザインプレゼンテーション部門主任、工兵隊・バージニア州フォートベルボア戦略情報局陸軍技術師団設計支部長としてヨーロッパに渡る。ドイツ・ニュルンベルク裁判法廷建築配置担当として建築の仕事に従事し、建築の資格を得る。またこれにより勲功賞を授与。帰国後は庭プラン付分譲住宅を約20年間、1件150ドルで91件もの庭を設計しているが、図面どおり実現せずまた実現したものも現存していない。1951年からバーモント州シャーロット
目次
1 経歴
2 おもな作品
3 その他
4 著書
5 参考文献
6 出典
6.1 典拠
6.2 脚注
経歴
カイリーは、1997 年に全米芸術勲章 (National Medal of Arts) を、2002 年にクーパー・ヒューイット国立デザイン博物館から特別功労賞を授与されている[1]。2004年に自宅のあるヴァーモント州シャーロットでその生涯を終える、91歳。死去後に開催された展覧会の動員数や関連ウェブサイトへの訪問者数、ワシントンDCのナショナル・ギャラリーやニューヨークのフォード財団における作品再建等でカイリーの認知度が高まっていることが伺えるという[1]。アメリカ造園家協会ASLAや国際造園家協会IFLAといった既存の組織には所属せず、独自の道を歩む。
おもな作品
Kunhardtハウス ・・ マサチューセッツ州 ノースアンドーバー、1935年
コリアハウス ・・バージニア州 フォールズチャーチ、1940年
ケネス・カスラー