ダンベリー
市
Danbury
ダンベリー市メインストリート、2007年12月
愛称: 帽子の都市
フェアフィールド郡内の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度24分08秒 西経73度28分16秒 / 北緯41.40222度 西経73.47111度 / 41.40222; -73.47111
ダンベリー(英: Danbury)は、アメリカ合衆国コネチカット州のフェアフィールド郡にある都市。人口は8万6518万人(2020年)。ニューヨーク市の北東112kmに位置しており、ニューヨーク都市圏に含まれる。
ダンベリー市は、初期開拓者の多くがイングランドのエセックスにあるダンベリー出身だったことから名付けられた。帽子を製造していた歴史があり、国内の帽子のほぼ25%を製作していたこともあったので、「帽子の都市」という綽名がある[2]。市内にはダンベリー病院や、ウェスタン・コネチカット州立大学がある。 ダンベリーに最初の開拓者が入植したのは1685年のことであり、現在のノーウォークとスタンフォードから8家族が移動してきた。ダンベリーの地域は当時パークィオク族インディアンからそのまま「パークィオク」と呼ばれていた。初期開拓者の一人がサミュエル・ベネディクトであり、1685年に兄弟のジェイムズ・ベネディクト、ジェイムズ・ビーブ、ジュダ・グレゴリーと共に、パークィオク族から土地を購入した。土地のインディアンから「パクィアック」(開けた平原あるいは開かれた土地)とも呼ばれており[3]、開拓者達は、町の名前に「スワンプフィールド」(湿地野原)を選んだが、1687年10月、植民地議会がダンベリーという名前を決めた。議会は新しい町の領域内で区画割りを定める委員会を指名した。1693年に測量が行われ、1702年に正式な町の認可が行われた。 アメリカ独立戦争のとき、ダンベリーは大陸軍のための重要な軍需物資保管所だった。1777年4月26日から27日、ウィリアム・トライアン少将が指揮するイギリス軍が町を燃やし、略奪した。ダンベリー市の市章に中央に書かれているモットーは、ラテン語の Restituimus (我々は回復した)であり、ロイヤリストの軍隊によって破壊されたあとから立ち直ったことを言っている。このリッジフィールドの戦いでダンベリーを攻撃したイギリス軍によって、大陸軍の将軍デイビッド・ウースターが致命傷を負った。ウースターはダンベリーのウースター墓地に埋葬された。ダンベリーにある私立のウースター学校はこのウースターにちなむ命名である。 1780年、ダンベリーで初の帽子工場がザドック・ベネディクトによって設立された。従業員は3人であり、州に18個の帽子を作った。20世紀のダンベリーは「帽子の都市」あるいは「世界の帽子首都」と呼ばれた。1904年にはアメリカで造られた帽子の24%を生産した[2]。 1802年、トーマス・ジェファーソンがダンベリーのバプテスト協会に手紙を書いた。この協会は町の会衆派教会員から迫害を受ける心配を表明していた。ジェファーソンはその手紙で「政教分離原則」という言葉を使っており、この表現が初めて使われた機会になった。一般に信じられているようにアメリカ合衆国憲法にこの言葉は現れておらず、憲法修正第1条の自由権条項と組み合わされて、この制度が通念とされたのが正しい。憲法の起草者と考えられるジェームズ・マディソンは政教分離について似たような表現を使った[4]。ジェファーソンの手紙はダンベリーのユニテリアン・ユニヴァーサリズム教会で展示されている。 最初のダンベリー祭は1821年に開催された。1869年に毎年開催される行事になった。最後に開催されたのは1981年だった。その催事広場は整地されてダンベリー・フェアモールが建設され、1986年秋に開業した[5]。
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