ダンプ松本
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タイトルが「ダンプ松本」のアーケードゲームについては「極悪同盟#極悪同盟 ダンプ松本」をご覧ください。

ダンプ松本
Dump Matsumoto

プロフィール
リングネームダンプ松本
本名松本 香
ニックネーム極悪女王
アウさん
身長164cm
体重100kg
誕生日 (1960-11-11) 1960年11月11日(63歳)
出身地埼玉県熊谷市
所属えりオフィス
デビュー1980年8月8日
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ダンプ 松本(ダンプ まつもと、1960年11月11日 - )は、日本の女子プロレスラータレント女優。本名・松本 香(まつもと かおる)。身長164cm、体重100kg、血液型B型。埼玉県熊谷市出身。えりオフィス所属。「D・松本」と表記されることもある。
人物

中学時代は、バスケ部、水泳部に所属していた[1]。デビュー前はマッハ文朱の大ファンだった[2]。私立大宮開成高校へ入学。高校一年と二年度には補欠ではあるがアーチェリーでインターハイへ出場した[3]。同校卒。

幼いころから父親の金銭問題・DV・女性問題などで苦労していた最愛の母のために家を買って建ててあげたいという思いで、ビューティーペアに憧れて女子プロレスラーになることを志す[4]

1980年全日本女子プロレスで本名の松本香でプロデビュー[5]1984年の年明けにリングネームをダンプ松本と変更すると、クレーン・ユウと共にヒール軍団『極悪同盟』を結成[6]。のちに加わり一番弟子となるブル中野らとヒールのタッグチームを組み、人気沸騰中だった正規軍「クラッシュギャルズ」(ライオネス飛鳥長与千種が当時結成していたコンビ名)との抗争を繰り広げ、女子プロレスを大いに盛り上げた。長与千種とは2度にわたり、敗者髪切りデスマッチを行った。フジテレビ系列で放送されていた『全日本女子プロレス中継』ではヒールにもかかわらず人気を博し、リングネームの「ダンプ」は、本名時代のファイトを観ていた観客が「あいつ、ダンプみてえだ!!」と口走ったことに由来している。全日本女子プロレスの松永高司会長は、このエピソードを引き合いに出して「スターはお客さんがつくってくれるんですよ」と語ったことがある[7]。ダンプは松永会長からは生前大変に可愛がってもらったとインタビューなどで度々語っている。

得意技はラリアット。そのパワーを利して喉元にぶち当てる一撃は強烈で、相手が空中で一回転したこともあった。

悪役レスラーとしての全盛期は、女子プロレスファンの年齢層が低めで、いわゆるマークアングルを本気で信じる若年層)が多かった。そのため、ダンプのアンチが実家に押しかけ、「ダンプ出て来い!」と玄関を叩きながら大声で叫ぶ、玄関先にダンプを中傷する張り紙を貼る、窓ガラスを割られる、といった嫌がらせを何度も受けた。他にも当時ダンプが購入したばかりの真っ赤な新車のフェアレディZを納車直後に傷つけられる、私物の自転車や原付バイクを破壊されたり、当時の自宅マンションの空き巣被害や街中で罵声を浴びせられる、飲食店や服屋、デパートなどでの入店拒否など、ヒールとしての嫌われぶりは相当で、付いた異名が「日本で一番殺したい人間」であった[8][9]。1985年8月に大阪城ホールで行われた長与との敗者髪切りデスマッチでは、試合終了後に暴動状態となり、500?600人のファンが極悪同盟の選手バスを取り囲んで揺らすという事態まで発展した。ダンプは当時の事を「警備員にまで殴られる始末だった。あの時は本当に殺されるかと思った」と述べている他[9]、2023年に中野のYouTubeチャンネルに出演した際にもダンプは敗者髪切りデスマッチに関して「クラッシュギャルズにおける意思統一がなされていなかった」と指摘した上で、「飛鳥に聞いたところ、長与との敗者髪切りデスマッチは勝手に会社に決められた」「セコンドについている飛鳥の顔を見ると、憎たらしいって顔してて。千種のことを可哀そうというよりも、私がやりたかった顔だった」「長与の髪を切る際は、最後まで坊主にしていない」「今思えば、余計に腹が立つ」と述べている[10]

また、『夕やけニャンニャン』の片岡鶴太郎への襲撃(片岡へのドッキリ)、『毎度おさわがせします』に出演する格闘技素人の中学生男子(という劇中設定)らに技をかけたり殴る蹴るといった「女チンピラ」のような役どころの影響で、女子プロレスを知らない層にも「ダンプ=公私関係なく乱暴者」というイメージがさらに独り歩きした。母親に怖い思いをさせたことで一時は悪役レスラーを続けるか悩んだが、当時はまだ薄給だったため、つらい中でも必死で頑張ったという。努力の甲斐あって、徐々にギャラも上がっていくとデビューから5年後には、深谷市に念願だった新築一軒家を購入して母親にプレゼントしている。2019年8月7日にはダンプが幼少時から確執があった父親が逝去した。殺意まで抱く相手であり、50年の間、口を利かなかった父親だが、晩年の入院中に意識が朦朧とした中で「この人は誰だかわかる?」と看護師に問われ「ダンプ松本」と答えたことから、テレビで自身を応援していたことを悟り、和解に至った。これが父との最後の会話となった[11]。正確には、その4か月前に父が肺炎で入院していた際に、医師から「持ってあと1週間です」と言われた瞬間、憎しみが消えたという。退院後、認知症の症状が見られた父を介護施設に入所させたが、憎んでいた頃とは全く別人となっていた父と初めて二人きりで写真を撮るなど、父に対する態度は既に軟化していた[12]

母親は、リング上での凶行が演技だと知っていても、暴力的な振る舞いに抵抗を感じており、試合会場へ観戦に赴く際は、怪我をさせた対戦相手の元へ毎回謝罪に訪れていた。そうした行動を執る母親へ「試合中の怪我の事で親が出てくるのは恥ずかしいから謝りに行かなくてもいいからね」とダンプはよく話していたという[13][14]。ヒールで世間から嫌われていた為に、母親や妹からは逆にダンプがプレゼントした実家へ1988年の全女引退時までは帰って来ないでとも言われていたという。

当初、リング上でダンプが頻繁に用いる凶器は金属チェーンだった。しかし、凶器を振り回す際、誤って自らを攻撃し激しい痛みがあったことや、場外乱闘中のアクシデントで「全日本女子プロレス中継(フジテレビ )」 常連ゲストの松岡きっこが指を負傷するといった経験から、現在まで愛用している竹刀へ変更した。ほかにもフォークハサミ一斗缶なども試合中には多用した。中継試合ではゲスト出演するタレントを威嚇して無礼な態度をとることが定番だった。しかし、ゲストのガッツ石松はダンプの行為に対して本気で怒り、殴りかかる勢いで抗ったため内心は恐怖で逃げ出したかったが、テレビカメラの前だったため平静を装ったという。また、試合前の入場時や試合後に控え室へ戻る際、テレビカメラマンに対する竹刀での攻撃も定番であった(当時、極悪同盟に肩入れしていたレフェリーの阿部四郎も、ダンプに便乗する形で蹴りを見舞ったり物をぶつけるなどカメラマンを攻撃することがあった)。

凶器を多用した試合内容ではあるが、危険度の高い技の使用は控えている。流血した際は麻酔なしで縫合させられ、ダンプ自身が抜糸を行っていた[15]。食事を共にするなどプライベートでも親交のあったプラム麻里子が試合中の事故で亡くなった際、マスコミに対し「最近危険な技が増えてきていて、いつも危ないと思うことがある。いくら体は鍛えられても頭だけは鍛えることができない」と涙ながらにコメントした。

試合中の奇抜なメイクは、ヒールレスラーでありながら笑うとえくぼが出てしまう可愛らしい童顔を隠すために行っていた。デザインはハードロックバンドKISS」のコープス・ペイントを参考にしている。コスチューム代は自己負担だった[15]

ピーク時の1試合当たりのギャラは3万5千円。タイトル戦に勝利すると100?200万円を手にし、平均月収は100万?300万円であった。ヒールキャラがポピュラーとなり芸能活動を開始しバラエティ番組への出演が多くなると、月収500万円の時もあったという[15]。全盛期には本業のプロレスと芸能活動のギャラを合わせ年収5000?6000万円ほどが4年間続いた。しかし、母親のための家を購入後は、後輩と出掛けた際の飲食代を毎回全額支払い、大好きだったパチンコに散財し全女を辞めるまでに殆ど使い切ってしまったと語っている。現在も親交のある後輩の工藤めぐみは「当時のギャラは現金支給で、支払日に一緒に受け取りに行ったときにダンプさんの給料袋の札束が立つほどに厚くて驚いた」と証言している。

リング上ではヒールに徹するが、リングを降りれば涙もろく人情に篤い性格である。


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