ダンディズム
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「ダンディ」のその他の用法については「ダンディー」をご覧ください。

「ダンディズム」はこの項目へ転送されています。

宝塚歌劇団の作品については「ダンディズム!」をご覧ください。

DOPING PANDAのアルバムについては「DANDYISM」をご覧ください。

1830年代パリにおける洒落たダンディ。左はフロックコートを、右はモーニングを着ている。このような体形を求めてきついコルセットも用いられた

ダンディ(: dandy)は、身なり・巧みな言葉づかい・余裕ある趣味といったものを特に重視しながら、あくまで無頓着を装ってそれらを追求し、自らに陶酔する男や女の精神を指す[1]。ダンディは、とりわけ18世紀後半から19世紀前半にかけての英国で自発的に生じ、中産階級の出自にかかわらず貴族のライフスタイルを模倣しようと励んだ。

ダンディに先行するものとしてプティ・メートルやミュスカダン(英語版)が現れていたことは記録上はっきりしているものの[2]、現在の意味でのダンディズムが最初に現れたのはフランス革命期にあたる1790年代のロンドンおよびパリである。ダンディは「慎み」について自問・批評を繰り返し洗練させていったが、行き着いた先は「シニシズム(en)」こそが「知的ダンディズム」であるとする作家ジョージ・メレディスの定義であった(なおメレディス自身はダンディではない)。もっとも、この時代を扱った『紅はこべ』のスカーレット・ピンパーネルは、文学史上でもかなりのダンディではある。先のものよりは手厳しくない定義として、トーマス・カーライルはダンディを単なる「着道楽」としている。オノレ・ド・バルザックは人間喜劇の1作『金色の眼の娘』(1835年)に、完全な俗人にして非情の人アンリ・ド・マルセーを登場させており、このマルセーははじめ完璧なダンディの要件を満たしていたが、憑りつかれたような恋愛の過程で激しく凶悪な嫉妬が姿を現していった。

シャルル・ボードレールは、ダンディズム後期の「形而上学的」段階[2]にあってダンディを以下のように定義している。すなわち、ダンディとは美学を宗教にまで高め、それに則って生きる者のことであり[3]、その宗教というのは、ただダンディが存在するだけで責任ある中産階級の市民への非難となる、というものである。「ある面で、ダンディズムは精神主義およびストイシズムに近づいてい」き、「[充分な資産を持ち労働を免れた]こうした存在は[注 1]、自らにとっての美の観念の洗練、趣味の上での追求、感性と思索とに生きている状態に他ならない。(中略)ダンディズムはロマン主義の1形態である。考えの足りない世上の連中が信じているらしいこととは裏腹に、ダンディズムは着る物に大はしゃぎをしてみせたり道具立てが逸品であったりすることですらない。こうしたことは、完全なダンディにとっては精神における貴族的優越の象徴以上のものではない。」

「何を着るか」ということと政治的抗議との結びつきは、イングランドでは18世紀に至ってことに顕著となっており[4]、このことを含み置くと、ダンディズムとはそれまでの貴族に代わって市民が社会を担う平等主義の時代の勃興に対する、貴族階級によるスタイルを通じた政治的異議申し立てとみなすこともできる。ダンディズムはしばしば封建社会や前工業社会の諸価値、たとえば「完璧なジェントルマン」や「自律せる貴族」といったものへの郷愁に執着したが、矛盾したことに、ダンディは観衆を必要とするものであった。オスカー・ワイルドバイロン卿の「マーケティング的に成功した人生」を調査した Susann Schmid は、両者のうちに作家でありゴシップおよびスキャンダルの発生源・供給源であるという、ダンディというものの公共空間における役割をみてとっている[5]。英国の作家 Nigel Rodgers (en)は、天才的なダンディであるというワイルドの地位に疑義を呈し、ワイルドは便宜としてダンディ風な構えをとっただけに過ぎず、求道者に苛烈な要求を課すダンディズムの理念に身を奉げたのではないとみている。
語源

「Dandy」という語の起源はよくわかっていない。1770年代には、それまで服装や見た目が極端であることを指す言葉だった「eccentricity」が、人々の奇矯な振る舞い全般に用いられはじめ[6]、それと並行して「dandy」という言葉も18世紀後半にはじめて現れている。アメリカ独立戦争直前にあたる時期には、植民地アメリカ市民の貧乏を言い立てぞんざいな作法をわらう「ヤンキードゥードゥル」が歌われたが、その1番の歌詞から読み取れるのは、周囲にまさってダンディたらんとする者は優れた馬と金の組み紐で飾った服を要する(そのような者は「イタリアかぶれの伊達男」という意味で皮肉をこめて「マカロニ」と呼ばれた)にもかかわらず、平均的植民地アメリカ市民の経済力があまりにも低かったため、1頭のポニーと身を飾る2、3枚の羽根飾りさえあれば仲間内で群を抜いたダンディとみなされ、そうしたダンディは米人よりさらに野暮ったい旧大陸側の同胞(英国兵)との比較においてもダンディであり、英国兵自身も米国のそうした伊達者が周囲から殊絶しているとみなすことさえあった、ということである[7]。少しのちの1780年頃、スコットランドバラッドにも「dandy」という単語が現れるが[8]、ここでの「dandy」にはこの項目で扱っているような含みはまずないようである。「Dandy」のもともとの形はおそらく「jack-a-dandy」というものであったらしい[9]。「Dandy」はナポレオン戦争期には流行語となった。当時の用法としては、「dandy」と「fop」は異なるものとされており、「dandy」の装いの方が上品で落ち着いているとみなされていた。

21世紀現在の英語では、「dandy」という語は、「fine」ないし「great」の意味をおどけて、またしばしば皮肉を込めて表す形容詞である。また名詞としては身なりの整った男を指すが、それに加えて自分のファッションを絶対視している場合に「dandy」と呼ぶことが多い。
ボー・ブランメルと英国における初期ダンディズムボー・ブランメル(1805年)

英国社会におけるダンディの模範となったのは、「ボー・ブランメル」ことジョージ・ブライアン・ブランメル(1778年 - 1840年)である。ブランメルは少時にはオックスフォード大学オリオル・カレッジの学生であり、のちには摂政王太子(即位後ジョージ4世)の取り巻きでもあったが、貴族の出ではない。実際のところ、ブランメルのすごさは「全く何にも基づいていない」というのはフランスの作家バルベー・ドールヴィイが1845年に喝破するところである[10]。白粉をはたくことも香水をつけることもなかったが、常に入浴と髭剃りを欠かさず、装いは紺青の無地のコートであったブランメルは[11]、髪にはきちんとブラシを当て、身に着ける物のサイズはぴったりで、コートから覗くリネンは糊がきいてパリッとし、もちろんすべてはきれいに洗濯されてあって、仕上げは丹念に結んだクラヴァット(英語版)(ネクタイの前身)であった。1790年代半ば以降のブランメルは「有名人」のはしりとなっていた。有名人とは有名だから有名であるという人のことだが、ブランメルの場合は口数は少ないが機知に富んだ伊達物として有名なのであった[要出典]。

ナポレオン戦争期の首相であった小ピットは、1795年に対仏戦争の戦費捻出と小麦粉の使用制限を目的として頭髪用の白粉に課税しているが(当時の男性用の長く白いかつらは小麦粉を原料とする白粉によって白くされていた。また当時不作のため小麦粉は希少化し値が上がっていた)、ブランメルはそれに先立ってすでにかつらの着用をやめ、髪をローマ風(ないしブルータス風「a la Brutus」)に短く刈らせていた。またブランメルはそれまで一般的だった膝丈の breeches から、仕立てた黒の pantaloons (いわゆるベルボトムではない)への変遷を主導した人物でもあった。Pantaloons はほぼそのまま現在のズボン類になっていき、西洋では以後200年、男性の服装の主流となっている。1799年、規定の年齢に達したため、ブランメルは父の遺産3万ポンドを相続した。ブランメルはこの3万ポンドのほとんどを着る物と賭け事、豪華な暮らしに浪費し、1816年にはダンディの典型的な末路である破産に至った。ブランメルは債権者を逃れてフランスに渡り、1840年、62歳を目前に[要出典]カーンの癲狂院(精神病院の前身)で人知れず没した。

ダンディ風のスタイルをとった人物でボー・ブランメルにまして成功した人物として、第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンが挙げられる。バイロン卿はフランス革命以降一旦すたれたレースのフリルを袖と襟とにあしらった poet shirt (en)を着ることがあった。


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