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イタリア海軍の戦艦については「ダンテ・アリギエーリ (戦艦)」をご覧ください。
ダンテ・アリギエーリ
Dante Alighieri
サンドロ・ボッティチェッリによる肖像画(1495年)
誕生Durante Alighieri
1265年
フィレンツェ共和国 フィレンツェ
死没1321年9月14日(56歳没)
教皇領 ラヴェンナ
墓地ラヴェンナ・ダンテの墓
ダンテ・アリギエーリ(イタリア語:Dante Alighieri、1265年 - 1321年9月14日)は、イタリア都市国家フィレンツェ出身の詩人、哲学者、政治家。政界を追放され放浪生活を送り文筆活動を続けた。
ダンテの代表作は古代ローマの詩人ウェルギリウスと共に地獄(Inferno)、煉獄(Purgatorio)、天国(Paradiso)を旅するテルツァ・リーマで構成される叙事詩『神曲(La Divina Commedia)』であり、他に詩文集『新生(La Vita Nuova)』がある。イタリア文学最大の詩人で[1][2]、大きな影響を与えたとされるルネサンス文化の先駆者と位置付けられている[1]。
生涯ダンテ・アリギエーリ
誕生ヴェローナのシニョーリ広場にある、ダンテ像
1265年に、イタリアの中部地域にあるトスカーナ地方のフィレンツェの町で金融業を営む教皇派(ゲルフ)の小貴族の父アリギエーロ・ディ・ベッリンチョーネ(Alaghiero(Alighieroとも) di Bellincione)とその妻ベッラ(Bella)の息子として生まれた。ダンテの先祖には神聖ローマ皇帝であったコンラート3世に仕え、第2回十字軍に参加して1148年にイスラム教徒と戦い、戦死した曽々祖父カッチャグイーダ(英語版)(1091年 - 1148年頃)がいることは『神曲』天国篇第15歌の第133行から第135行で明らかになる[3]。
「
マリア――唱名の聲高きを開きて――我を加へ給へり、汝等の昔の授洗所にて我は基督教徒となり、カッチアグイーダとなりたりき」
?『神曲』天国篇第15歌 第133行から第135行(山川丙三郎訳『神曲 天堂』より)
ダンテは生後、聖ジョヴァンニ洗礼堂で洗礼を受け「永続する者」の意味を持つドゥランテ・アリギエーリ(Durante Alighieri)と名付けられた。なお「ダンテ(Dante)」は、ドゥランテの慣習的短縮形である。
ダンテの正確な誕生日は明らかではないが、『神曲』天国篇第22歌の第109行から第117行の中にその手掛かりが見られる。
「
わがかの金牛に續く天宮を見てその内に入りしごとく早くは汝豈指を火に入れて引かんや
あゝ榮光の星よ、大いなる力滿つる光よ、我は汝等よりわがすべての才(そはいかなるものなりとも)の出づるを認む
我はじめてトスカーナの空氣を吸ひし時、一切の滅ぶる生命の父なる者、汝等と共に出で汝等とともに隠れにき」
?『神曲』天国篇第22歌 第109行から第117行(山川丙三郎訳『神曲 天堂』より)
この記述によると、ダンテがトスカーナに生を享けたのは、全ての生命の父たる太陽が黄道十二宮の金牛宮に続く双児宮のもとに懸っていた間ということが分かる。すなわち、双児宮のダンテの誕生日は、1265年の5月半ばから6月半ばにかけての間と考えられている。 少年時代のダンテについての確たる記録は乏しく、どのような成長過程を送ってきたかは定かではない。修道院で見習い修道士として修行してきたとも、没落貴族の子弟として世俗の中で育ってきたとも言われており、諸説は一致を見ない。多くのダンテの伝記は、ダンテ自身の作品である『新生』や『神曲』の記述に頼っており、生年月日すら詩文からの推定による他ないのである。だが、少なくとも成長の過程でラテン語の古典文法や修辞学、哲学などを学んできたと思われる。 ダンテが最も敬愛する師として『神曲』に登場させているのは、『宝典
少年時代
また、ダンテは古代ローマの詩人ウェルギリウスやマルクス・アンナエウス・ルカヌス、ホラティウス、オウィディウスから文体の探求の過程によりラテン文学の教養を身に付け、マルクス・トゥッリウス・キケロやルキウス・アンナエウス・セネカからは倫理学を学んだ。そしてダンテはフィレンツェの詩人でダンテの友人であったグイド・カヴァルカンティから大きな感化を受け、「清新体」と呼ばれる詩風を創り上げた。
ダンテは修道院が経営するラテン語学校やラティーニから学んだ後にボローニャ大学に入学し、哲学や法律学、修辞学、天文学などを研究した[5]。