ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
Dante Gabriel Rossetti
『ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの肖像』(1871年頃)ジョージ・フレデリック・ワッツ
本名Gabriel Charles Dante Rossetti
誕生日 (1828-05-12) 1828年5月12日
出生地 イギリス・ロンドン
死没年1882年4月10日(1882-04-10)(53歳)
死没地 イギリス・ケント州バーチントン
国籍 イギリス
運動・動向ラファエル前派
芸術分野絵画、詩人
教育ロイヤル・アカデミー付属美術学校
代表作『受胎告知』、『ベアタ・ベアトリクス』、『プロセルピナ』
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ダンテ・ガブリエル・ロセッティ
ベアタ・ベアトリクス 1863年頃[1] テート・ギャラリー(ロンドン)蔵
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(ロゼッティ[2]、Dante Gabriel Rossetti [?dante? ??e?bri?l r??zeti][3], 1828年5月12日 - 1882年4月10日[4])は、19世紀のイングランドの画家・詩人。ラファエル前派の一員に数えられる。詩人クリスティーナ・ロセッティの兄。姉のマリアと弟のウィリアムも著述家である[5]。医師・作家で最初の吸血鬼小説と呼ばれる『吸血鬼』を書いたジョン・ポリドリは叔父にあたる。
生涯はアブルッツォ州ヴァスト出身の詩人で著名なダンテ詩人であった[6]。ガブリエーレは1831年に創立されたキングス・カレッジにおいてイタリア語教授として勤めていたため、ロセッティと弟ウィリアム・マイケルは1837年秋にキングス・カレッジに入学している[7]。ロセッティは絵画と同じく文学も愛し、シェイクスピアやゲーテを読みながら5歳で戯曲『奴隷』を書くなどの才能を見せていた[8]。絵画技法について、在学中はノリッジ派
「ラファエル」とはイタリア・ルネサンスの巨匠であり、西洋古典絵画の代名詞とも言える画家ラファエロのことを指す。「ラファエロ以前」という言葉には、19世紀当時のアカデミーにおける古典偏重の美術教育に異を唱える意味があった。ラファエル前派に思想的な面で影響を与えたのは、同時代の思想家であり美術批評家であったジョン・ラスキンであった。ラスキンの美術に関する考えは、一言で言えば「自然をありのままに再現すべきだ」ということであった。この思想の根幹には、神の創造物である自然に完全さを見出すというラスキンの信仰があった。しかし、明確な理論をもった芸術運動ではなかったラファエル前派は長続きせず、1853年にミレーがロイヤル・アカデミーの準会員になったことなどをきっかけとして、数年後にはグループは解散した。なお、ロセッティの影響を大きく受けたエドワード・バーン=ジョーンズ(1833年 - 1898年)など、ヴィクトリア朝イギリスの画家たちを含めて広く「ラファエル前派」ととらえる場合もある。
ロセッティは、他のラファエル前派の画家たち同様、聖書、伝説、文学などに題材を求めた作品を多く描いたが、技法的には仲間の他の画家たちのような徹底した細密描写は得意でなかった。また、人物像の解剖学的把握にもやや難があり、全体として装飾的・耽美的な画面構成の作品が多い。
ロセッティの生涯はエリザベス・シダルとジェーン・バーデンという2人の女性と関連づけて述べられることが多い。この2人の女性とロセッティとの関係は複雑であるが、ロセッティの芸術を語る上で避けて通れない事項でもあり、以下に概略を述べることとする。エリザベス・シダルは長い婚約期間の後、ロセッティの妻となった女性で、ロセッティの代表作の一つである『ベアタ・ベアトリクス』の、またミレーの代表作『オフィーリア』やハントのモデルも務めた女性である。
一方のジェーン・バーデンは、19世紀イギリスの装飾芸術家・デザイナーとして著名なウィリアム・モリス(1834年?1896年)の妻となった女性であり、冥界の王プルートーと無理矢理結婚させられた女性を描いた『プロセルピナ』をはじめとするロセッティの多くの絵でモデルを務めている。また、101篇からなるソネット集『生命の家 The House of Life』(1871年)にも謳われている。ジェーンはロセッティが終生追い求めた理想の女性であったとされ、男を破滅に追いやる「ファム・ファタル」(femme fatale=運命の女)の一例とされている。
ロセッティがジェーン・バーデンに出会ったのは1857年、ウィリアム・モリスらの仲間とともに、アーサー王伝説に登場する王妃グィネヴィアの壁画を制作中の時であった。当初、壁画はエリザベス・シダルをモデルに制作されていたが制作に難航し、気分転換にと出向いたロンドンの下町の劇場で、ロセッティらはやはり観劇に訪れていたジェーンを見出した。当時、ロセッティはエリザベスと婚約していたが、ロセッティとジェーンは互いに惹かれるものがあったようで、以後、ロセッティの作品にはしばしばジェーンがモデルとして登場するようになる。繊細で病気がちな女性だったと言われているエリザベスにとって、ジェーンの存在は激しい心痛の種となった。
結局、ジェーンはロセッティの弟子にあたるウィリアム・モリスと結婚し、ロセッティは婚約者のエリザベスと予定どおり結婚した。