ダレイオス1世
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ペルシアの大王
在位紀元前522年 - 紀元前486年
別号エジプトのファラオ
出生紀元前550年頃
死去紀元前486年
配偶者アトッサ
アルテュストネ
パルミュス
フラタゴネ
パイディメ
ゴブリュアスの娘(名前不詳)
子女アルトバザネス、クセルクセス1世(クシャヤールシャン1世)、アリアビゲネス
ダレイオス1世(古代ペルシア語: D?rayavau - ダーラヤワウ、紀元前550年頃 - 紀元前486年)は、アケメネス朝の王(在位:紀元前522年 - 紀元前486年)。一般にキュロス2世から数えて第3代とされるが、ダレイオス1世自身の言によれば第9代の王である。僭称者とされるスメルディス(ガウマータ)を排除して王位に就き、王国の全域で発生した反乱をことごとく鎮圧して、西はエジプト、トラキア地方から東はインダス川流域に至る広大な領土を統治した。彼は自らの出自、即位の経緯、そして各地の反乱の鎮圧などの業績をベヒストゥン碑文として知られる碑文に複数の言語で記録させており、これは近代における楔形文字と古代ペルシア語解読のための貴重な資料を提供した。また、今日にもその遺跡が残されているペルセポリスの建設を開始した。 彼の名前は古代ペルシア語ではダーラヤワウ(D?rayavau、D?rayava(h)u?[注釈 1])である。D?rayavauという名前は、語幹のd?raya(保持する者)と形容詞vau(善)からなり、「確固たる善を保持する者」を意味する即位名である[2]。 古代ペルシア語の楔形文字表記では???????となる(.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}?(da)?(a)?(ra)?(ya)?(va)?(u)?(?)[3])。 日本語では一般にダレイオス1世またはダリウス1世として知られている。この名前はギリシア語形ダーレイオス(Dareios、Δαρε?ο?
王名
ダレイオス1世と彼の後継者たちが支配した領域が広大であったため、彼の名前は多数の言語で様々な形態で記録されている。主要なものは以下の通りである。 ダレイオス1世は碑文において新機軸の王号を使用している。彼が築き上げた広大な帝国を支配するため、それに相応しい新たな王権観が必要とされ、かつてのアッシリアの称号なども参考に多数の称号が用いられた[5]。彼はキュロス2世(クル2世[注釈 3])が用いていた称号を一部踏襲しているが、更にアッシリア王の称号「諸王の王(?ar ?arr?ni)」に由来する「諸王の王(X?ayathiya X?ayathiyanam)」という称号を採用した[5]。この称号は同じく彼が用いている「この地界の王(X?ayathiya ahyaya bumiya)」「諸邦の王(X?ayathiya dahyunam )」等とも密接に関連し、一部の地域ではなく様々な異民族を支配する世界帝国の王であることを強く意識した称号である[5][6]。また、アウラマズダー神の恩寵(Va?na Ahuramazda)によって王となったという一種の王権神授の立場を取った[5]。この点は彼以前の王、キュロス2世なども同様の論理を用いているが、ダレイオス1世が画期的であったのは、キュロス2世の称号がメソポタミアの神々の支持によるという、バビロニアの現地人向けの「政治宣伝」的な物であるのに対し、ダレイオス1世のそれはイラン系固有の宗教に基づくものであった点である[5]。このような変化は、後述の通り彼は簒奪者として王位についた可能性が高く、バビロニア人等の異民族よりもまずペルシア人の支持を勝ち取る必要があったからであろう[5]。 なお、アウラマズダーは一般的にゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーのことであると考えられているが、ダレイオス1世を含む古代ペルシア人の宗教をゾロアスター教と見做すかどうかについては議論がある[注釈 4]。 ダレイオス1世はヒュルカニア
エラム語:Da-ri-(y)a-ma-u-i?、Da-ri-ya-(h)u-(u-)i?[2]
アッカド語:Da-(a-)ri-ia-(a-)mu?、Da-(a-)ri-mu?[2]
アラム語:dryhw?[注釈 2]、drw?、dryw?[2]
エジプト語:tr(w)?、trjw?、intr(w)?、intrjw?[2]
リュキア語:Ntarijeus[2]
称号
来歴
出自ダレイオス1世は自身の出自について以下のように語る。
余はダーラヤワウ(ダレイオス)、偉大なる王、諸王の王、パールサの王、諸邦の王、ウィシュタースパ(ヒュスタスペス)の子、アルシャーマ(アルサメス)の孫、ハカーマニシュ(アケメネス)の裔。
王ダーラヤワウは告げる、余の父はウィシュタースパ、ウィシュタースパの父はアルシャーマ、アルシャーマの父はアリヤーラムナ(アリアラムネス)、アリヤーラムナの父はチャイシュピ(テイスペス)、チャイシュピの父はハカーマニシュ。
王ダーラヤワウは告げる、このゆえに、われらはハカーマニシュ家と呼ばれる。往昔よりわれらは勢家である。往昔よりわれらの一門は王家であった。
王ダーラヤワウは告げる、我が一門にしてさきに王たりしは八人、余は第九位。二系にわかれて九人、われらは王である。
- ベヒストゥン碑文§1-4、伊藤義教訳[6]
カンビュセス2世の崩御とガウマータの簒奪レリーフに描かれたダレイオス1世。
ダレイオス1世の幼少期についての情報は存在しない。ヘロドトスによれば、カンビュセス2世(カンブジヤ2世)の生前、ダレイオス1世はカンビュセス2世の槍持ちとして親衛隊にいたという[11]。この職業は王に極めて近い人物のみが付く高い職である[10]。また、バビロニアのサトラップ、ゴブリュアス(ガウバルワ)の娘と結婚し、3人の子供を儲けていた[10]。ダレイオス1世が主要な舞台に登場するのはカンビュセス2世の崩御(紀元前522年)とその後の王位継承の争いの頃である。この時代についての重要な記録はヘロドトスが『歴史』に記録している逸話と、ダレイオス1世自身が残したベヒストゥン碑文である[12]。