ダルース_(ミネソタ州)
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市西側の丘の上に建つエンガー・タワー(Enger Tower)よりダルースのダウンタウンを望むダルースのシンボル、エアリアル橋

ダルース(Duluth)は、アメリカ合衆国ミネソタ州北東部に位置する都市。セントルイス郡郡庁所在地である。人口は8万6697人(2020年)[1]で、州第5の都市である。南に隣接するウィスコンシン州スペリオル市とともに形成している都市圏は4郡にまたがる。

市名は17世紀にこの一帯を探索した初めてのヨーロッパ人となった、フランスの軍人ダニエル・グレイソロン(Daniel Greysolon, Sieur du Lhut)にちなんでいる。周辺に住むネイティブ・アメリカンオジブワ族の言語では、ダルースはオニガミインシング(Onigamiinsing)と呼ばれている。
概要

ダルースは五大湖のひとつ、スペリオル湖の最西端に位置する港湾都市である。ダルース港は世界有数の鉄山であるメサビ鉄山からの鉄鉱石タコナイトの積出港であり、五大湖・セントローレンス海路で最も重要な港湾のひとつとなっている。ダルース港は世界で最も内陸にある港湾で、大西洋セントローレンス川河口からは約3,700キロメートル離れている。ダルースで積みこまれた鉄鉱石は五大湖・セントローレンス海路を下って、また同水路に通ずる運河を経由して国内外へと運ばれていく。

一方、夏の涼しいダルースでは観光化も進んでいる。主な名所としては、ダルース港とスペリオル湖とをつなぐ運河沿いに整備されたキャナル・パークと、港の入り口に架かるエアリアル橋が挙げられる。またダルース市内には、全盛期を偲ぶことのできる歴史的建造物がいくつか残っている。

また、ダルースはボブ・ディランの生まれた町としても知られている。しかし、ディランは少年期のほとんどをダルースではなく、メサビ鉄山の鉱山町ヒビングで過ごした。
歴史
前史時代

町ができる何千年も前から、スペリオル湖岸のこの地にはパレオ・インディアンと呼ばれるネイティブ・アメリカンが住んでいた。彼らは最終氷期の終わりごろにこの地に住み着き、クロビス・ポイントと呼ばれる石製ナイフを使って狩りをし、金属製の釣り針を使って漁をして生活していた。2,000年ほど前には、この地には土器を使用し、またマコモ(ワイルドライス)の栽培も行うウッドランズ族(Woodlands)が住んでいた。彼らは塚を築いての土葬も行っていた。現在でもマコモを栽培しているオジブワ族は、ミネソタ・ポイント上でスペリオル湖とセントルイス川の連水陸送が容易であったことから、この地を「小さな連水陸送の」という意味であるオニガミインシング(Onigamiinsing)と呼んだ。オジブワ族の伝承によると、現在のダルースのスピリット・バレー地区の近くに位置していたスピリット・アイランドは「6番目の停止地」であった。オジブワ族の南北の領土は同地で合わさり、現在のウィスコンシン州ラポイントの近くにあった「7番目の停止地」へと続いていた。
ヨーロッパ人の入植

1679年フランスの軍人であり、探検家でもあったダニエル・グレイソロンがこの地を探索し、当時この地における二大勢力であったスー族とオジブワ族がぶつかっていたこの地に入植地を建設した。グレイソロンの目的はこの地において毛皮の商取引を成立させることであった。グレイソロンの働きにより、オジブワ族を介してフランス人入植者とスー族とが取引を行うルートが成立した。1692年には、ハドソン湾会社が現在のダルースのフォンデュラック地区(Fond du Lac)に小さな取引所を開設した。

しかしその後100年にわたって、取引所が増設されることはなかった。1792年になってようやく、セントルイス川の対岸、ウィスコンシン州側にこの地で2番目となる取引所がノースウェスト会社のジーン・バプティスト・カドット(Jean Baptiste Cadotte)によって開設された。この取引所は1800年に焼失してしまったが、すぐにドイツ人移民のヨハン・ヤコブ・アストル(John Jacob Astor)によってミネソタ州側に新たな取引所が開設された。この取引所は当初ネイティブ・アメリカンがイギリス人とフランス人との取引を強く主張していたため難航した。しかしアストルはアメリカ合衆国議会を説得し、アメリカ合衆国領土内での外国人の取引を禁じる法律を作らせ、独占市場を作り上げることでこの事態を乗り切った。アストルのアメリカ毛皮会社は1816年から1817年にかけては更生状態に置かれた。1830年代後半ごろからは、それまで毛皮の購買層であったヨーロッパ人が毛皮の代わりにを身にまとうようになったため、この取引所は再び危機に瀕した。

1826年1847年の2度にわたって、現在のフォンデュラック地区においてアメリカ合衆国政府とオジブワ族との間でフォンデュラック条約(Treaty of Fond du Lac)が締結された。さらに1854年のワシントン条約によって、ダルースの上流、クロケットの近くにフォンデュラックインディアン居留区(Fond du Lac Indian Reservation)が設置されると、オジブワ族は居留区に移住させられ、この一帯は白人のものとなった。
町の建設

1850年代に入るとこの地にの鉱脈が存在するといううわさが広まり、この一帯への注目が集まった。1852年に政府がこの地を調査し、1854年の条約(前述)によってネイティブ・アメリカンの襲撃の危険性がなくなると、を求める探検者たちがこの地に続々とやってくるようになった。これらの探検者たちはこの一帯での鉄鉱石採掘の礎を築き上げた。

同じ頃、スペリオル湖の東に閘門を有する運河スーセントマリー運河が開削され、この一帯に大型の船舶がたどり着けるようになった。また、ミネアポリスセントポールにつながる道路も開通した。セントルイス川の両岸には11の小さな町がつくられた。これらの町は、後にダルースが市として形成されていく上での基となった。

1857年、この一帯でのの資源が枯渇すると、今度は林業が市の主産業になっていった。しかし、アメリカ合衆国全土を襲った経済危機によって、市の初期の開拓者のほぼ4分の3が町を離れていった。

1860年代後半、資本家ジェイ・クック(Jay Cooke)はレイク・スペリオル・アンド・ミシシッピ鉄道を説得し、セントポールからダルースへ同社の路線を延伸させた。鉄道が開通したことにより、スペリオル湖北西岸のこの一帯では鉄鉱石の鉱業が興った。1869年の元旦には、ダルースにはわずか14家族が暮らすのみであったが、同じ年の独立記念日には、町の人口は3,500人に膨れ上がった。

太平洋側への鉄道建設はノーザン・パシフィック鉄道が1870年に起工し1878年にワシントン準州と連結した。
「語られざる歓喜」

しかし、誰もがダルースが町として成功する可能性を信じていたわけではなかった。ダルースの可能性に対しての疑いの声は、ケンタッキー州選出の下院議員、J・プロクター・ノット1871年1月27日にアメリカ合衆国下院で行った演説、The Untold Delights of Duluth(ダルースの語られざる歓喜)で現された。この演説は、ダルースをエデンの園に見立てて、西への資本投下を批判したものであった。この演説は民間伝承集やジョーク集で再版され、この種のものとしては古典的な部類に入るものとされている。近隣のプロクター市はJ・プロクター・ノットにちなんで名付けられた。

ダルースの非公式な姉妹都市であるジョージア州ダルースの市名は、エバン・P・ハウエル(Evan P. Howell)がこの演説にちなんでつけたものであった。もとはハウエルの祖父であったエバン・ハウエル(Evan Howell)にちなんでハウエルズ・クロスロードと呼ばれていたこの町では、1871年に鉄道が開通したとき、この「ダルースの歓喜」の演説がまだ人気の高いものであった。
港湾都市としての隆盛ダルース港の鉄鉱石埠頭。1910年

20世紀に入ると、市はさらに成長を続けていった。初期の市民はダウンタウンや丘の斜面に住んだ。1900年代には、ダルース港は総貨物取引量でニューヨーク港を上回り、アメリカ合衆国最大の取引量を誇る港湾となった。市には新聞社が10社、銀行は6行あり、11階建ての高層ビル、トーレー・ビルディング(Torrey Building)も建っていた。1907年には、USスチールがダルースに500万-600万ドルの製鉄所を建てると発表した。この製鉄所が完成し、操業を始めたのはその8年後であった。


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