ダルムシュタット
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紋章地図

基本情報
連邦州:ヘッセン州
行政管区:ダルムシュタット行政管区
郡:郡独立市
緯度経度:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯49度52分22秒 東経08度39分04秒 / 北緯49.87278度 東経8.65111度 / 49.87278; 8.65111座標: 北緯49度52分22秒 東経08度39分04秒 / 北緯49.87278度 東経8.65111度 / 49.87278; 8.65111
標高:海抜 144 m
面積:122.07 km2
人口:

159,631人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:1,308 人/km2
郵便番号:64283 ? 64297
市外局番:06151, 06150, 06159
ナンバープレート:DA
自治体コード:

06 4 11 000
行政庁舎の住所:Luisenplatz 5
64283 Darmstadt
ウェブサイト:www.darmstadt.de
首長:Hanno Benz
州内の位置

地図

ダルムシュタット(ドイツ語: Darmstadt, ドイツ語発音: [?darm?tat][2])は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州南部の郡独立市で、ダルムシュタット行政管区本部およびダルムシュタット=ディーブルク郡郡庁の所在地である。この都市はライン=マイン地区に含まれ、ヘッセン州に9つある上級中心都市の1つとなっている。ダルムシュタットは、フランクフルト・アム・マインヴィースバーデンカッセルに次ぐヘッセン州第4の都市である。最も近い大都市はフランクフルト・アム・マインで北に約30km[3]、ヴィースバーデンとマインツが約40km北西、マンハイムが南約45kmに位置している。

医薬品会社のメルクに市民の雇用を依存している(#地元企業)。学術都市[4]としても著名である。1877年に創設された工科大学と3つの専門大学合わせて3万人を超える学生を抱える。研究施設も数多い(#研究所、研究機関)。1899年にエルンスト・ルートヴィヒ大公がマチルダの丘に芸術家村を設けたことからユーゲントシュティールの中心ともなった。
地理
位置

ダルムシュタットで4つの自然領域が重なり合っている。市域の西部はオーバーライン地溝帯がある。この領域は市の南部でベルクシュトラーセの狭い縁に接続する。ベルクシュトラーセはここから始まる。市域の南東はマチルダの丘の辺りまでフォルダー・オーデンヴァルトに含まれる。ダルムシュタットの北東部はこれとは違ってメセラー丘陵に含まれる。この都市はダルムバッハ沿いにあり、南部のエーバーシュタット区をモーダウ川が流れている。
隣接する市町村

ダルムシュタットは、北はオッフェンバッハ郡、東、南、西はダルムシュタット=ディーブルク郡と隣接する。境を接する市町村は、北から時計回りに、エーゲルスバッハランゲンドライアイヒ(以上3市町村はオッフェンバッハ郡)、メッセルグロース=ツィンメルンロスドルフオーバー=ラムシュタットミュールタールゼーハイム=ユーゲンハイムプフングシュタットグリースハイムヴァイターシュタットエルツハウゼン(以上、ダルムシュタット=ディーブルク郡)
気候

1961年から1990年までのダルムシュタット(植物園)の月別平均気温と降水量[5]

1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
気温()0.51.64.88.813.216.418.217.514.19.44.51.6平均9.2
降水量 (mm)53.946.360.055.075.077.975.573.055.357.268.363.0計760.4


市の構成ダルムシュタットの統計地区配置

ダルムシュタット市の構成は、9つの市区からなる。統計的な背景からこれらは統計地区に分割され、それぞれナンバリングされている。全部で9つの市区の内、5つが中心部(統計地区100番台から500番台)、4つが郊外区(統計地区600番台から900番台)である。詳細は以下の通り。

No.名称人口1備考
100ダルムシュタット中央区16,626市中央、アイヒベルク地区を含む
200ダルムシュタット北区27,713ヨハネス地区、マルティンス地区、ヴァルト集落を含む
300ダルムシュタット東区12,768マチルダの丘、ヴォークス地区を含む
400ベッスンゲン区12,6801888年4月1日に合併
500ダルムシュタット西区14,631ハイムシュテッテンジートルング、オイローパ地区を含む
600アルハイルゲン区16,4681937年4月1日に合併 2
700エーバーシュタット区21,7341937年4月1日に合併 2
800ヴィックスハウゼン区5,7331977年4月1日に合併
900クラニヒシュタイン区10,750?

1 2005年12月31日現在。
21937年4月1日にアルハイルゲンとエーバーシュタットが合併したことで、ダルムシュタットは大都市となった。
歴史詳細は「ダルムシュタットの歴史」を参照
中世前期

ダルムシュタットは8世紀から9世紀頃にフランク人によって建設された。11世紀に初めて文献に登場する。13世紀中頃に水城が築かれ、1330年都市権を獲得し、市場が開かれるようになった。これ以後、重要な交易路であるベルクシュトラーセの北端に位置する都市として急速に繁栄した。
ヘッセン方伯時代

1476年にダルムシュタットはヘッセン方伯領となった。この時、都市権の安堵と引き替えに方伯の借金を押しつけられ経済状況が悪化した。またこの頃から市参事会と市民階級の間に齟齬が生じ、都市の行政機能が二重化していった。1567年にヘッセン方伯家が分裂し、ヘッセン=ダルムシュタット方伯家が創設され、この都市は宮廷所在地となり、新たな発展の時代を迎えた。しかし、三十年戦争が激化すると方伯は、防衛施設の脆弱なダルムシュタットを捨て、ギーセンに遷ってしまった。かつてダルムシュタットの繁栄を支えたベルクシュトラーセは、各国の軍隊の通り道となり、この街は何度も占領され、略奪を受け、飢餓に苛まれた。またこれらの軍隊や、それを避けて逃げ込んだ周辺農民たちにより持ち込まれるペストにも苦しめられた。三十年戦争終結後は交易の回復とともにゆっくりと再興していった。だが、1693年にはフランス軍に攻撃され、また方伯家の浪費癖が禍し、経済的には苦しい状況が続いた。初代ヘッセン大公、ルートヴィヒ1世
ヘッセン大公時代

1803年帝国代表者会議主要決議に基づき、ヘッセン=ダルムシュタット方伯は多くの領土を得、1806年に方伯はヘッセン大公を称することとなった。初代大公ルートヴィヒ1世の下、ダルムシュタットは再び急速に発展していった。また、ルートヴィヒ1世は二院制の議会を創設した。1848年にこれはプロイセンをモデルとする三級選挙法の導入につながっていった。最後のヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒは、第一次世界大戦前夜の激動期にあっても政治的野心に乏しい人物で、一方で芸術を保護し、1899年に「マチルダの丘」に芸術家コロニーを創設してユーゲントシュティール運動を応援した。
近代1944年の空爆で廃墟と化したルイーゼン広場

1930年代からダルムシュタットでも国家社会主義が急速に力をつけていた。


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