ダルムシュタットの歴史
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本項では、ドイツ連邦共和国ヘッセン州南部の都市ダルムシュタットの歴史について詳述する。

ダルムシュタットは、フランク人入植地から中世になって築かれた都市である。16世紀のヘッセン分割後は、ヘッセン=ダルムシュタット方伯領の宮廷所在地として、政治的中心地となった。19世紀にはヘッセン大公国の首都となり、ドイツ帝国滅亡後はヘッセン人民州の首都となった。第二次世界大戦で壊滅的な被害を受け、戦後、ヘッセン州の州都には大戦の被害をほとんど受けなかったヴィースバーデンが選ばれ、政治的重要性を喪失した。しかし、ユーゲントシュティール運動の中心地として、あるいはダルムシュタット夏季現代音楽講習会などで国際的に知られる芸術文化都市としてその存在感を保っている。
先史時代

いくつかの出土品や農耕跡から、紀元前4000年から5000年にヴェッテラウ地方から線帯文土器文化が伝播し、その後いわゆるレッセン文化がヴェッテラウ地方からもたらされたと推測されている。また、南からわずかながらミヒェルスベルク文化が入り込んだこともわずかな出土品から証明されている。これら3つの新石器時代農耕文化はその重要性や位置の持つ意義が高く評価されている。

紀元前2000年頃から金属加工、新しい縄目文土器製作術、鐘形杯をもたらした重要な民族グループが移住してきたことが解っている。初めは、Streitaxtleuteと名付けられた人々がテューリンゲンからマイン地方に進出した。彼らは戦闘能力に優れており土着の民族を駆逐したと考えられている。彼らの墳墓遺跡がアルハイルゲン区の北部やクラニヒシュタイン区に遺されている。これとほぼ同じ頃に初めて加工技術を持ったGlockenbecherleute(鐘形杯文化の民族)が西ヨーロッパからやって来た。この民族がStreitaxtleuteをダルムシュタット地域から追い出したことが数多くの出土品から証明されている。1926年に重要な墳墓遺跡が発掘された。ここには若い男性が典型的な屈葬の形で埋葬されていた。この遺体は「最古のダルムシュタット人」としてダルムシュタットの州立博物館に保管されている。

紀元前1600年から1200年頃の青銅器時代には、人工の墳丘の下に体を伸ばした状態で埋葬する独特の埋葬形態からHugelgraberbronzezeit(墳丘青銅時代)と呼ばれる民族グループの痕跡が数多く見られる。多くの陶器、装身具、武器、さらにはバルト海沿岸で産出した琥珀シュレージエン地方のArmstulpenといった副葬品が最初の文化的隆盛を示している。ヴィックスハウゼン区では、この時代のものである最初の住居跡も発掘されている。

紀元前1200年頃から社会構造の変化による完全な文化構造の変化が起こった。放牧が優勢だった地域に農耕がもたらされ、火葬が行われるようになり、骨壺に納めて埋葬されるようになった。骨壺文化と呼ばれるこの文化の人々は、数多くの実用土器や装身具、武具から高い技術力を持っていたことが示されている。
村から都市へ(800年頃から1479年まで)
萌芽期(800年頃 - 1330年)

ダルムシュタットの村落はおそらく8世紀あるいは9世紀にフランク人によって建設された。この時代以後、この地に一貫して人が住み続けていることは疑いの余地がない。しかし、ダルムシュタットが歴史上の記述として初めて現れるのは11世紀の末である。貴族レーギンボーデン家に属するジーゲボーデ伯にDarmundestatの徴税を許可したというものである。[1][2]

ダルムシュタットは初めドライエック狩猟場に属した。その後、1002年にヴォルムス司教領に属すベッスンゲン伯領の村となり、1009年にバンベルク司教領となった後、1013年6月21日ヴュルツブルク司教領となった。その後1803年帝国代表者会議主要決議に基づく世俗化までヴュルツブルク司教領に留まった。

13世紀の中頃にカッツェネルンボーゲン伯はダルムシュタットの近くに水城を建設した。その防衛のために城の南側に徐々に騎士が住むようになっていった。城の東側には元々農民が住んでおり、それぞれを核として2つの町が形作られてゆき、おそらく最初は別々に運営されていたと思われる。
都市権と市壁の建設(1330年 - 1479年)

1330年7月23日、皇帝ルートヴィヒ4世はカッツェネルンボーゲン伯ヴィルヘルム1世にダルムシュタットの都市権を授けた。この特権授与は伯に対する個人的なものであり、市民や都市在住の貴族に対して何らの権利を与えるものでもなかった。しかしこれに付随する市場の開催権によって、それまで目立たない入植地だったこの町の重要性は急速に増し、近隣のあらゆる経済がダルムシュタットの市場に集約されるようになった。ダルムシュタットは、より古くより大きな都市であるフランクフルト・アム・マインヴォルムスシュパイアーと肩を並べるようになった。

ダルムシュタットはベルクシュトラーセの北に直結している。この事はこの都市の大きな経済上の利点であり、政治的にもたとえばラインハイムのような近隣都市を凌駕していた。さらにダルムシュタットはフランク時代からすでに、少なくとも一部は防塁を築いていた。そして遅くともカッツェネルンボーゲン伯の水城が建設された頃までには、ベルクシュトラーセに直結するベスンゲンにも市壁が築かれていた。このベルクシュトラーセに直結する好位置と水城を含む防壁の組み合わせは、カッツェネルンボーゲン伯時代にこの都市が経験した経済的・政治的飛躍の土台をなすものであった。都市権獲得後、初めは市域を厳格に規定していた市壁内で都市活動が行われていたが、急速にスペース不足が起こったことから市域は次第に拡大を続け、それまでの2つの町は一体化した。内側・外側の両市壁の完成までには約100年が費やされた。

市の自治権は、市長(シュルトハイス)を代表とし14名からなる参審裁判所によって運営されていた。普通は宗教との関連から7または12人で構成されることが多い市民代表者が、この都市では14人という人数であるのは異例なことである。おそらくオーバードルフから7人、ウンタードルフからも同数の市民代表者を受け容れたことによって人数が倍になったのだと考えられ、農民からなるオーバードルフと貴族からなるウンタードルフの社会的な距離の大きさを示すものである。やがてこの人数は減って行き、都市の運営は、わずかな家族の成員によって占められていた。彼らは生涯その職にあり、死後もその家族の成員に世襲されていったのである。このことは、やがてこの街に起こる政治的緊張の予兆を示すものであった。市民階級の人々は、自分たちの意思が反映されていないことを明らかに感じ取っていた。市民達の権利意識を考慮し、カッツェネルンボーゲン伯フィリップは1457年に市の運営担当者を14人に戻し、そのすべてを選挙で選ぶように命令した。しかし、すでに存在していた参審裁判所の影響力はどうやら相当に大きなものであったらしく、「Vierers」という役職を設ける方法で組織の拡大だけを実行した。この役職はその名が示す通り (vier = 4 ) 四人で構成される委員会で市民の意向を代表する組織とされた。この委員は市民の直接選挙で選出されることとされた。

14世紀から15世紀にかけてカッツェネルンボーゲン伯は城の増改築を続け、15世紀の中頃には中世の城塞的性格の水城は堂々たる城館に変貌していた。ダルムシュタットはカッツェネルンボーゲン伯の副首都となり、1385年にカッツェネルンボーゲン伯妃エルゼがその居館に未亡人の「宮廷」を組織する頃には最初の発展最盛期を迎えた。1453年2月にカッツェネルンボーゲン伯フィリップ・デア・ユンゲレンが早逝した後、ダルムシュタットの城館はその未亡人オッティリーの居館となった。
方伯時代
統一ヘッセンの晩年(1479年 - 1567年)

1479年に最後のカッツェネルンボーゲン伯が亡くなり同家が断絶した後、ダルムシュタットはヘッセン方伯ハインリヒ3世のものとなった。これによりこの都市は重要な副首都としての威勢を失い、権力中枢のカッセルから遠く離れた前哨基地という位置づけに落とされた。城館や市壁があるにもかかわらず、その社会構造はかつての農村にふさわしいものになっていった。この時代の初期で重要なことは、1489年8月10日にハインリヒ3世がすべての都市特権の有効性を容認したことである。これによって都市権および市場開催権はそれまでの伯の束縛を逃れ、市当局の管理下に置かれることとなったのである。ただし、方伯はその代償にこの都市に経済的支援を義務づけた。こうしてダルムシュタットは方伯のひどい財政状況の一端を押しつけられ、その借金によって経済的に没落していった。ヘッセン方伯フィリップ

だが、ダルムシュタットにとって本当の変化は、フィリップ(寛容伯)が方伯に即位した1518年に訪れた。この年にフランツ・フォン・ジッキンゲンがダルムシュタットを攻撃した。この時、比較的新しい市壁ですら技術的に絶望的に時代遅れのものとなっており、包囲戦を長く持ちこたえる事はできなかった。これにより城館は初めて破壊され、都市はその後何年も破壊された建物の再興に費やさねばならなかった。しかし、この街は包囲戦以前の姿に再建され、防衛施設の根本的な刷新は諦めなければならなかった。その結果、わずか数年後の1547年シュマルカルデン戦争で皇帝軍の襲撃を受け占領された。このため城館と都市の大部分が再び破壊されたのである。

この戦争の原因の一つにシスマがあった。フィリップは1527年にヘッセンに宗教改革をもたらし、これにより皇帝カール5世に追放刑を宣言されていた。その後の両者の対決でダルムシュタットは引き続き停滞した。しかし、フィリップは明らかに前任者よりも大きな負担を強いたにもかかわらずダルムシュタットの経済は頑健であった。政治的も、フィリップの治世には多くの会議や外交交渉がダルムシュタットで行われている。

内政面では、都市運営階級と市民階級の間に依然大きな隔たりがあった。このため多くの役所が二重構造化していった。たとえば市長は、市参事会が1年ごとに選出する「ラーツビュルガーマイスター」(後のオーバービュルガーマイスター)と市民階級がやはり1年ごとに選出する「ユンゲラー・ビュルガーマイスター」(またはウンタービュルガーマイスター)がいた。このように市参事会と市民の間には緊張関係があり、市参事は十分に市を代表するとは言い難い状況にあった。


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