ダルフール紛争
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ダルフール紛争
War in Darfur

ダルフールの地図

時2003年 - 現在
場所スーダンダルフール
結果現在継続中

衝突した勢力

正義と平等運動
スーダン解放運動/軍
スーダン革命戦線援助国:
 南スーダン
 エリトリア
 チャド
 リビア
 ウガンダ
 アメリカ合衆国 スーダン
ジャンジャウィード
援助国:
中国
 チャド
 カタール
 ロシア
 イラン
戦力
反政府軍兵士
60,000人スーダン軍
109,300人
緊急予備部隊
17,500人
ジャンジャウィード
25,000人
被害者数
300,000人以上の民間人が死亡

ダルフール紛争(ダルフールふんそう)は、スーダン西部のダルフール地方で継続中の紛争。特に近年のものはダルフール地方の反政府勢力の反乱を契機に、スーダン政府軍とスーダン政府に支援されたアラブ系の「ジャンジャウィード」(Janjaweed, Janjawid, Jingaweit)と呼ばれる民兵の反撃が、地域の非アラブ系住民の大規模な虐殺や村落の破壊にまで発展したものである。

この紛争で2003年2月の衝突以降、正確な数字は不明であるがおよそ40万人程度が既に殺害[1] され、現在進行中の民族浄化の事例として広く報告されている。2004年6月3日の国連事務総長の公式統括(bilan officiel)によれば、1956年の独立以来、1972年から1983年の11年間を除く期間に、200万人の死者、400万人の家を追われた者、60万人の難民が発生しているとされる (UN Doc.S/2004/453)。
紛争の起源

ダルフールは多くの民族が居住している地域で、大別するとフール人、マサリート(英語版)、ザガワなどの非アラブ系の諸民族と、バッガーラ(英語版)と呼ばれる13世紀以降にこの地域に移住してきたアラブ系とで構成されている。いずれもムスリムであるが、両者の関係は長年緊張を伴うものだった。植民地化される前のフール王国はバッガーラ(正確にはリザイカート)としばしば衝突した。さらに20世紀までダルフールは奴隷交易の中心地の1つで、ギニア湾岸やエジプトなど沿岸地域へ供給する奴隷を手に入れるため、バール・エル=ガザルの辺までフール人とアラブ系との奴隷主が競り合った。フール人やマサリートは定住農民であり、アラブ系やザガワは遊牧する牧畜民であったので、土地や水などの資源をめぐり、経済的な需要からも二つのグループに分かれて紛争が生じた。

1956年の独立以降、スーダン政府はアラブ化する傾向を強め、1958年からは軍事独裁政権だった。1955年にはムスリムによるスーダン政府とほぼムスリムでないスーダン南部の非アラブ系諸民族連合との間で内戦が起こり、1972年から1983年の停戦期間を除いて戦闘が2002年の休戦宣言まで続けられていた。2003年の包括和平協定では北部のスーダン統一政府と、南部の反政府グループにより樹立された暫定南スーダン政府との間で国家の歳入(主には石油収入)を分け合うことが合意された。

しかしこの合意はダルフール地方の活動家たちの非アラブ系民族の公正な扱いの要求を満たすものではなかった。2つの地域の反政府集団、正義と平等運動 (JEM) とスーダン解放運動/軍(SLM/A, ダルフール解放戦線、DLFから改称)が政府による、アラブ人の要望に応じた非アラブ人への圧力を非難した。ハサン・トラービー(英語版)はJEMを支援しているとして非難され、2004年3月以降反乱に関与したと断定され投獄された ⇒[1]。トラービーは関与を否定しているが、「事態を悪化させている」として政府を批判した。SLM はおおよそフール人とマサリートとで、JEM はダルフール北部のザガワによって組織された。
紛争の経過2004年8月時の破壊された村 (Source: DigitalGlobe, Inc. and Department of State via USAID)南ダルフール州ニヤーラー付近のIDPキャンプジャンジャウィードの攻撃で破壊された村の保健所国内難民キャンプ

近年の衝突は2003年2月26日にダルフール解放運動と名乗る反乱軍がゴロの警察署を攻撃したことから始まったと主張されているが、それ以前から反乱軍は軍や警察の拠点を襲撃していた。スーダン政府は地域のアラブ系住民による民兵組織ジャンジャウィードによる地上攻撃を空爆によって支援した。記者のジュリー・フリントとアレックス・デ・ワールは反乱は2001年7月21日にフール人とザガワのグループがアブー・ガムラに集まり、政府の支援による攻撃から彼らの村を守ることをクルアーンにかけて誓ったことから始まると表明している[2]。紛争が政治的な意図に基づいているため、民兵などのエスニシティに基づいて攻撃対象とされた村には人種的な要素の他に、牧羊者(大半がアラブ系)と農民(一般に非アラブ人)との水と土地に関する経済的な争いにも関係する要素がみられた。国連の監視チームは、アラブ人の村が手つかずで残された一方、非アラブ人の村が選ばれていると報道した。「(監視チームの2日間の幾つかのそのような地域の巡回の間に気付いた分で)シャッタヤ管区の23のフール人の村が略奪され、地面が見えるまで燃やされ、完全に無人化している。その一方で、焦げ付いた地域のすぐ傍でアラブ系の居住地は人が住み、燃やされず、機能した状態で残されて点在している。幾つかの地点ではフール人の村とアラブ人の村は500mも離れていなかった」(2004年4月25日の国連組織間報告書より引用)

さらに2004年5月15日の『エコノミスト』誌によれば、ジャンジャウィードは「多数のモスクにも放火し、破り捨てたクルアーンの紙切れの上で排便した」といわれる。

双方が民間人に対する大量虐殺・略奪・強姦を含む人権侵害に関与したとして非難されている。しかしながら、直ちに優勢を得たのは武装で上回るジャンジャウィードの方だった。2004年の春までに(ほとんど非アラブ人口の)数千人が殺され、100万以上の人々が家を追われ、その結果、地域に大きな人道上の危機が引き起こされた。10万人以上の難民がジャンジャウィードの民兵に追われ、隣接するチャドに流れ込んだことで、この危機には国際的な要素も加わった。ジャンジャウィードはチャド国境に展開していたチャド軍の兵士と衝突し、4月の銃撃戦では民兵70人チャド兵10人以上が殺された。

独立系の監視者は、ユーゴスラビア戦争時の民族浄化よりも戦術が多様化していることに注目したうえで、ダルフールの遠隔性により数十万人が事実上援助から切り離されていると警告している。ブリュッセルに本拠を持つ国際危機グループは、飢餓と疾病により35万人以上が死の危機に瀕していると報道した。

アフリカ連合(AU)と欧州連合(EU)は2004年の7月5日時点で2004年4月8日に結ばれた停戦[2]監視団を送っている。 ⇒[3][4]

スーダン政府と反政府2派との和平交渉でスーダン政府によるジャンジャウィードの武装解除などの6項目の約束が守られていないとして、2004年7月17日反政府側が離脱を表明した。

2004年8月10日国連人道問題調整事務所は、スーダン政府軍がヘリコプターによる空爆でジャンジャウィードと連携し新たな住民攻撃を行ったと報告した。

スーダン政府はこの紛争を「単に小競り合いだ」とし、大統領であるオマル・アル=バシールは、「ダルフールに対する国際的な懸念は実際はスーダンがイスラム国家であることを標的にしている」と語った。スーダン政府は、物資などの支援を求めながら、「東アフリカの国の内政問題に干渉しないように」イギリスおよびアメリカに警告し、自らが「どんな軍事援助をも拒絶するだろう」と語った。

2004年8月に、AUは停戦監視団を保護するために150人のルワンダの部隊をダルフールに送った。しかし決定時には「部隊の権限は、民間人の保護を含んでいなかった」が、ルワンダの大統領ポール・カガメは、「もし民間人がそのとき危険な状態にあることが確証されれば、私たちの軍は確かに介在し民間人を保護するために兵力を使用するだろう」と宣言した。だが、そのような努力には確実に150人を超える軍隊を必要とする。ルワンダ部隊は8月の終わりに150人のナイジェリアの部隊と合流した。

2006年1月20日、SLM と JEM は西部スーダン革命勢力同盟(Alliance of Revolutionary Forces of West Sudan, ARFWS)として統合すると発表したが、5月までに決裂した。そしてSLAから分裂したSLAミナウィ派のみがスーダン政府と和平合意(DPA)に応じ、ミナウィ派はジャンジャウィードや政府軍と共に住民を攻撃するようになった。


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