ダルダニア人 (Δαρδαν?ωνε?) またはダルダナイ、ダルダノイ([?d??rd?na?]; 古代ギリシア語: Δαρδ?νιοι, Δ?ρδανοι; ラテン語: Dardani)は、古代ダルダニア(現在のコソボ付近)に住んでいたインド・ヨーロッパ語族に属する民族[1][2]。イリュリア人とトラキア人の領域の境界付近に勢力を持っていたが、どちらに属するかははっきりしていない[3][4][5]。ただ多くの著述家は、ダルダニア人やダルダニアをイリュリアの一部とは見なしていない[6]。 古代ギリシア語ではダルダネイス、ダルダニオイ、ダルダノイ(Dardaneis, Dardanioi, Dardanoi)、ラテン語ではダルダニ(Dardani)と呼ばれた。[7] 1854年、オーストリアの学者ヨハン・ゲオルグ・フォン・ハーン ギリシア神話の中では、イリュリオスの息子の一人として登場するダルダノス (Δ?ρδανο?)という人物が、ダルダノイ (Δ?ρδανοι)の祖、エポニムであるとされている[11]。古代ローマの地理学者の中には、バルカン半島のダルダニア人と、トロイア戦争の物語に登場する「ダルダニア人 初めてダルダニア人に関する言及が現れるのは紀元前4世紀、ダルダニア王
語源
ギリシア神話
歴史
紀元前4世紀
紀元前334年、バルデュリスの息子クレイトスが他のイリュリア人諸族と手を結び、アレクサンドロス3世時代のマケドニアに侵攻した。当初は都市をいくつか制圧できたものの、最終的にはアレクサンドロス3世に敗れた[14]。 紀元前279年までに、ダルダニアにケルト人が現れた(ケルト人の南東ヨーロッパ進出
紀元前3世紀-紀元前1世紀
ダルダニア人は、長らくマケドニアにとっての脅威であり続けた紀元前230年、ロンガルス[21]率いるダルダニア人がパエオニア人からビラゾラを奪った[22]。229年には再びマケドニアに侵攻し、デメトリオス2世に勝利した[23]。この頃ロンガルスらダルダニア人は再び力を増していった。多くのイリュリア部族が、共和政ローマを敵に回したアルディアエア女王テウタを見捨ててロンガルスのもとに走り、テウタはエピルス遠征を断念した[24]。紀元前220/19年から、マケドニア王ピリッポス5世との間で紛争が起き、紀元前217年にビラオラを奪われた。紀元前209年、アエロプス(おそらくマケドニア王位請求者)率いるダルダニア人がリクニドスを占領して掠奪して2万人を捕虜とし、ピリッポス5世の軍がやってくる前に撤収した[25]。
紀元前201年、ロンガルスの息子であるダルダニア王バトは、アルディアエア王プレウラトゥス3世、アタマニア王アミュナンデル、そしてローマ執政官スルピキウスとともに、ピリッポス5世を攻撃した[26]。このマケドニア戦争ののち、ピリッポス5世はダルダニア人に対抗するため、バステルナエ人を招いて同盟を結び、ダルダニアとの境界に最も近いポロクに住まわせた[27]。両者は共同でダルダニア人を攻めたが、その半ばでピリッポス5世は病死し、後を継いだ息子のペルセウスはマケドニア軍を撤退させた。一方クロンディクス率いるバステルナエ人3万は、そのままドナウ川を渡って侵攻を続け、ダルダニア人を破ったとみられる[28]。紀元前179年、バステルナエ人はダルダニア人を征服し、紀元前174年に彼らを故地から追い出した。これはダルダニア人が喫した敗北がいかに破滅的だったかを示している。紀元前170年、ダルダニア人はマケドニアにも敗れた[29]。紀元前2世紀半ばには、ケルト系のスコルディスキ族がダルダニア人を支配した。これ以降長きにわたり、ダルダニア人の名は歴史上に現れなくなる[30]。