ダリル・スペンサー
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ダーレル・スペンサー

ダリル・スペンサー
Daryl Spencer基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地カンザス州ウィチタ
生年月日 (1928-07-13) 1928年7月13日
没年月日 (2017-01-02) 2017年1月2日(88歳没)
身長
体重6' 2" =約188 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション二塁手遊撃手三塁手
プロ入り1949年
初出場MLB / 1952年9月17日
NPB / 1964年3月14日
最終出場MLB / 1963年7月11日
NPB / 1972年10月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


ウィチタ州立大学(英語版)

ニューヨーク・ジャイアンツ
サンフランシスコ・ジャイアンツ
(1952 - 1953, 1956 - 1959)

セントルイス・カージナルス (1960 - 1961)

ロサンゼルス・ドジャース (1961 - 1963)

シンシナティ・レッズ (1963)

阪急ブレーブス (1964 - 1968, 1971 - 1972)

コーチ歴


阪急ブレーブス (1971 - 1972)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ダリル・ディーン・スペンサー(Daryl Dean Spencer, 1928年7月13日 - 2017年1月2日)は、アメリカ合衆国カンザス州出身のプロ野球選手内野手)・プロ野球指導者。

アメリカでのニックネームは「ビッグ・ディー (Big Dee)」[1]。日本では阪急ブレーブスの主軸打者としてプレーし、「ドクター・ベースボール」と呼ばれた[2]
経歴

カンザス州ウィチタで生まれ、ウィチタイースト高校(英語版)、州立ウィチタ大学(英語版)を経て、1949年にニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)と契約する。
メジャーリーグ時代

1952年にAAAミネアポリス・ミラーズ(英語版)で、打率.294、27本塁打を記録し、同年ニューヨーク・ジャイアンツでメジャーデビュー。1953年は二塁・三塁・遊撃を守るユーティリティとして起用され、打率.208ながら20本塁打を放った。同年オフに日米野球でジャイアンツが来日した際、スペンサーも日本を訪れている。1954年から2年間は兵役でチームを離脱。1956年から復帰し、この頃から正遊撃手となった。以後は1960年セントルイス・カージナルス1961年シーズン途中にロサンゼルス・ドジャース1963年シーズン途中にシンシナティ・レッズと渡り歩いた。ドジャース以降は三塁手としてプレーした。1963年7月19日にレッズを戦力外となった[1]
阪急時代

1964年阪急ブレーブスに年俸22,500ドルで入団し来日[3]。空港に着くと、私は阪急を優勝するために来た、私のバットと頭脳で実現させる、と語った[4]。長く正二塁手を務めていたロベルト・バルボンに代わってレギュラーとなり、石井晶ウインディとクリーンナップを組む。打率.282(リーグ13位)、36本塁打(同2位)、94打点(同3位)と打撃3部門でチームトップの成績を挙げ、ベストナイン二塁手のタイトルを獲得した。

1965年は打撃好調で、当時パシフィック・リーグ最強打者として君臨していた野村克也南海)と激しい三冠王争いを展開。8月15日を迎えた時点での打撃成績は、スペンサー:打率.329、33本塁打、62打点、野村:打率.335、27本塁打、80打点で、両者とも三冠を狙える位置に付けていた。しかし、8月14日から8月15日にかけては、タイトル争いとは無関係の東京オリオンズ投手陣によりスペンサーは当時の日本記録となる8打席連続で歩かされる。まず、8月14日に坂井勝二から2打席連続敬遠されると、8月15日のダブルヘッダー第1試合の先発は「精密機械」の異名を取るほどの制球力を誇る小山正明であったが、スペンサーに対しては4打席全てストレートの四球であった。第2試合も2打席連続四球(うち1度は満塁押しだし)で、しびれを切らしたスペンサーは次の打席で敬遠球を無理矢理打ち、連続四球は8打席で終わった。これについては、当時は外国人選手にタイトルを取らせるなという風潮があり、小山も「外国人にはタイトルを取らせたくない」旨の発言をしたともされる(小山自身は発言を否定)[5]。一方で、スペンサーの次を打つ五番・戸口天従がわずか1本塁打と五番を打つには打力不足だったことから、投手が敢えてスペンサーとの勝負を避けた結果とする見方もあり、小山自身ものちに「スペンサーより次打者と勝負した方が勝算が高かった」旨の発言をしている[6]。また、10月3日には野村克也率いる南海と対戦。このときスペンサーはバットのグリップとヘッドを逆さまに構えて打席に立つという抗議行動に出た。しかし南海は、その打席でもスペンサーを敬遠した。この頃のスペンサーはストレスが相当に溜まり、精神的にかなり参っていたという[7]。その後、シーズン残り2週間となった10月5日にスペンサーはオートバイ交通事故に巻き込まれて右足を骨折し、閉幕までの11試合の欠場を余儀なくされた[8]。スペンサーは最高出塁率に、2年連続となるベストナインのタイトルを獲得したものの、打率.311(リーグ2位)、38本塁打(同2位)、77打点(同4位)で、野村の打率.320、42本塁打、110打点には届かず、野村に戦後初の三冠王を許す結果となった[2]。敬遠ラッシュを受けることを予想していたコーチの青田昇は「野村は秋になると打率が落ちる」と言って、スペンサーに首位打者を狙うように提案したが、打倒野村に熱くなっていたスペンサーには伝わらなかった[9]

なお、同年7月16日にはサイクル安打を記録。阪急入団後初めて記録した三塁打がこの記録に結び付いた。当時の日本ではサイクル安打という概念は無く、スペンサーはサイクル安打を達成した際、自ら記者に「なぜ自分に質問をしてこないのか。これはサイクル安打といって、とんでもない記録なんだよ」と言ったという。このスペンサーの発言をきっかけとして、日本野球機構は過去に遡ってサイクル安打達成者を調査(初代達成者は藤村富美男)、さらにサイクル安打を達成した者は連盟表彰が行われるようになり、通算150本塁打、100勝などの節目の記録と同様に記録達成者として公式に名前が残る事になった。


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