ダリエン計画
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ニューカレドニア
スコットランド王国植民地


1698 ? 1700年



スコットランド会社の旗
カレドニアの位置現代の地図におけるニューカレドニアの位置
政庁所在地ニューエディンバラ
国王
 - 1689?1702, 1689-1694 / 1685-1701ウィリアム2世メアリー2世 /ジェームズ7世
指導者
 - 1698?1700トマス・ドラモンド(Thomas Drummond)
 - 1700年1月-2月フォナブのアレクサンダー・キャンベル(Alexander Campbell of Fonab)
時代植民地時代
 - 初上陸1698年11月2日
 - 最初の入植地の放棄1699年7月
 - 第2の入植地建設1699年11月30日
 - 第2の入植地の放棄1700年2月
人口
 - 16981,200 
 - 17002,500 
現在 パナマ

ダリエン計画(: Darien scheme、ダリエン・スキーム)は、1690年代末に行われた、スコットランド王国の投資家による失敗に終わった植民計画である。現パナマ共和国グナ・ヤラ(英語版)(グナ族自治区)にニューカレドニア(New Caledonia、「新スコットランド」の意)植民地を建設し、バルボアと同様にパナマ地峡を陸路で横断して大西洋のダリエン湾(英語版)から太平洋へと通じる交易路の開拓を目論んだ。

二度にわたって定住が試みられたものの、80%を超える移住者が1年以内に死亡、植民地は放棄された[1] [2]。このような悲惨な結果となったのには様々な原因があった。計画と準備の不十分さ、リーダーシップの分裂、貿易品の需要の欠如、イングランドによる貿易封鎖[3]、熱帯病の壊滅的な流行、スコットランドによる植民を快く思わないイングランド東インド会社とイングランド政府との連携、スペイン帝国の軍事的反撃への見透しの甘さ、などが対抗勢力の主張からも示唆されている。最終的に、1700年3月にスペイン軍によって陸海から包囲され降伏、植民地は放棄されるに至った[4]。また、1698年には遠征隊が「蟹島」(Crab Isle、現プエルトリコビエケス島)を占領するも、この島も短期間で放棄されている[5]

この事業を進めたスコットランド会社は、スコットランドで流通する資金の約20%を投入していたため、その失敗はスコットランド低地地方全体の財政破綻を招くことになり、合同法(1707年に成立)に対する抵抗運動を弱める大きな要因となった。
前史

17世紀後半は、ヨーロッパの他の多くの地域と同様に、スコットランドにとって苦難の時代であった。 1695年から97年にかけて、現在のエストニア、フィンランド、ラトビア、ノルウェー、スウェーデンにかけての地域で大飢饉が発生、フランスと北イタリアでも推定200万人の死者が出た[6]。 1690年代は過去750年間の中でスコットランドが最も寒い10年であったことが年輪からも明らかになっている[7] [8]

スコットランドは隣国・イングランドとの間に同君連合を組んではいたが、政治的な統一は未だなされていなかった。イングランドと比して経済規模も小さく、輸出の範囲も限られているスコットランドの立場は弱く、欧州における経済的競争が激化する時代の中、スコットランドはイングランドとの競争や法制度の影響から自国を守ることは困難であった[9]造船などかつてスコットランドで発展していた産業は大幅に衰退し、スコットランドで需要があった商品はスターリング・ポンドでイングランドから購入せざるをえなかった。さらに、航海条例によってスコットランドの海運が制限されたことによってイングランドへの経済的依存は一層進んだ。スコットランド海軍もイングランドと比べて弱小であった[9]。北半球を襲った異常な寒波は多くの国に影響を及ぼしたが、スコットランドは政治的に孤立していたこともあり、全人口の10?15%を失うという輪をかけて大きな被害に見舞われることとなった[10]。 また、三王国戦争とも称される1639年から51年にかけてのピューリタン革命を含む一連の内戦や、1670年から1690年にかけての宗教的対立に関した混乱といった国内の対立による消耗も激しかった。 1690年代のいわゆる"七凶年(seven ill years)[a]は、悪化を続けるスコットランドの経済的地位によって引き起こされたものでもあった。これに対し、イングランドとの政治的統一や関税同盟の締結を求める声もあがったが、スコットランド人の間でより強まった感情は、むしろスコットランドがイングランドのような商業大国・植民地大国になるべきであるというものであった [9]

これに応じて、スコットランド議会によっていくつかの解決策が制定された。1695年にはスコットランド銀行が設立され、1696年の教育法(学校設立法、Act for the Settling of Schools)はスコットランド全土に小教区に基づいた公教育制度を作り出した。そして、「アフリカとインド[b]」との貿易のための公募発行によって調達した資金でもってスコットランド会社(en:Company of Scotland)が1695年に設立された[11]スコットランド会社に関する資金と文書の保管に使用された金庫[12]

スコットランド会社のアムステルダム、ハンブルク、ロンドンでの資金調達は、イングランドの商業的な利害に基づく反対に直面した[13]。また、スコットランド王ウィリアム2世(イングランド王ウィリアム3世)としては、スコットランドの植民地を得ようとする試み全般の支援にあまり熱心でなかった[c]。これは当時イングランドはフランスと大同盟戦争を戦っており、ヌエバ・グラナダとして中南米を版図としていた同盟国スペインとの対立は望んでいなかったためであった[15]

この計画に対してイングランドが反対した理由の1つは、当時は重商主義の経済理論が普及していたことも理由として挙げられる。現代の資本主義の経済学では一般的に絶えず成長する市場を想定しているが、重商主義はそれを静的であると見なしており、自国の市場シェアを増やすには、他国からそれを奪う必要があると考えられていた[16]。すなわち、ダリエン計画は単なる競争ではなく、イングランド商人に対する積極的な脅迫の意味合いがあったのである。

また、イングランドはロンドンに本拠を置く東インド会社からの圧力にさらされていた。東インド会社はイングランドの対外交易の独占維持を強く求めており[15]、そのため、イングランドとオランダの投資家はこの計画から撤退せざるをえなかった。続いて、東インド会社は、スコットランド人がイングランドの領域外で資金を調達する権限を国王から持っていなかったという理由で法的措置をとると脅し、スコットランド会社の発起人にハンブルクの投資家に対して寄付を払い戻すことを義務付けた。これにより、この計画のスコットランド国外の資金源は失われることになった[11]

しかし、エディンバラに戻ると、スコットランド会社は数週間で40万スターリング・ポンド(今日の約6600万ポンドに相当)[17]の調達に成功した。スコットランドの富の約5分の1にも当たる額が、社会のあらゆる階層から集まった[18] [19]。スコットランドにとって、それは莫大な資本であった[20]

スコットランド生まれの商人・金融家のウィリアム・パターソン(William Paterson)は、パナマ地峡の植民地を大西洋と太平洋の間の玄関口として使用する計画を長い間推進していた。


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