ダライ・ラマ5世
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ロサン・ギャツォ
ダライ・ラマ5世

在位1642年?1682年
前任ユンテン・ギャツォ
後任ツァンヤン・ギャツォ
チベット語????????????????
ワイリーblo bzang rgya mtsho
発音IPA: [l?sa? cats??]
転写
(PRC)Lobsang Gyaco
THDLLozang Gyatso
漢字羅桑嘉措
生誕1617年
チベットチョンギェー
死没1682年(64 - 65歳没)
チベット
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ダライ・ラマ5世(1617年 - 1682年)は、第5代のダライ・ラマで、法名をロサン・ギャツォ (Lozang Gyatso) という。ダライ・ラマ5世は1645年にポタラ宮の建設を始めた。ポタラ宮は50年余りを費やしてダライ・ラマ5世没後の1695年に完成した。現在のポタラ宮には観世音菩薩の化身としてダライ・ラマ5世が祀られている。

ダライ・ラマ5世は1642年に権力を掌握してから40年にわたってチベットの行政と宗教を支え、「偉大なる5世(ガパ・チェンポ)」と呼ばれた[1]
背景
関連人物・組織

チベット

ゲルク派 / チベットの一宗派。首座はガンデン・ティパと呼ばれる。ダライ・ラマパンチェン・ラマなどの名跡もゲルク派に属する。ダライ・ラマ3世の時にモンゴルの支援を取り付けて力を付ける。1642年、ダライ・ラマ5世の時にチベットの政権を掌握。

サキャ派政権 / サキャ派はチベットの一宗派。本拠地はシガツェ1260年クビライがサキャ派の長を宗教指導者に指名したことから、チベットの政権を掌握。元が明に敗れると、政権としての力を失う。宗派としては現代まで継続。

カギュ派 / チベットの一宗派。多くの支派がある。

パクモドゥ派政権 / パクモドゥ派はラン氏を主体としたカギュ派の支派。本拠地はネドン。サキャ派がモンゴル帝国の庇護を失ってから、チベットの政権を掌握。後に外戚であったリンプン氏に乗っ取られ、リンプン氏がパクモドゥ派僧正位を空位にしたことからパクモドゥ派本流は宗派としては滅ぶ。政治派閥としてはしばらく継続。支派のいくつかが現代まで継続。

カルマ派 / カルマ派はカギュ派の支派。総本山はツルプ寺。リンプン派政権、ツァン派政権の支援を受けたため宗派として栄えたが、ツァン派政権と対立したゲルク派と対立。ゲルク派のダライ・ラマ5世が政権を取ると東チベットに逃走するが、30年後に中央チベットに戻って和解。


リンプン派政権 / 貴族のリンプン氏がパクモドゥ派政権を乗っ取り、成立。本拠地はシガツェ。ただしチベット全土を支配する力はなく、チベットは内乱状態となる。支援宗派はカルマ派

ツァン派政権 / リンプン氏の重臣が内乱の末にシガツェを中心に作った王国。チベットの政権をある程度掌握。支援宗派はカルマ派。ダライ・ラマ5世を支援した遊牧民族オイラトのグーシ・ハーンに滅ぼされる。


モンゴル高原 モンゴル帝国が滅びた後もしばらくはモンゴル民族の力が強かった。後にオイラトなどの別民族も力を付ける。

モンゴル帝国 / チンギス・カンが始め、子孫が発展させた帝国。元朝の頃、チベットのサキャ派政権を事実上支配下に置く。元がに敗れて本拠地を北部に移し、北元となってからはチベットに対する影響が衰える。

ダヤン・ハーン / チンギス・カンの末裔を称するモンゴルの中興の祖。1464年生まれ。

トゥメト / ダヤン・ハーンの子孫の一系統。ダヤン・ハーンの孫アルタン・ハーンダライ・ラマ3世を支援。アルタン・ハーンの孫がダライ・ラマ4世となる。ダライ・ラマ4世が死ぬと、チベットでの力を失う。(現在は主に中国の内モンゴル自治区に住む。)

七旗ハルハ / ダヤン・ハーンの子孫の一系統。チョクトゥ・ハン(英語版)の時、ツァン王テンキョン・ワンポと同盟。間もなく内紛が生じ、さらにオイラトグーシ・ハーンに敗れて力を失う。(現在は主にモンゴル国に住む。)


オイラト / モンゴル族の西に居住していた遊牧民。チンギス・カンの時代にモンゴルの支配下となる。モンゴル帝国崩壊後、力を増す。(現在はロシア連邦のカルムイク共和国モンゴル国などに住む。)

ホシュート / オイラトの有力部族の一つ。グーシ・ハーンの時に、モンゴル七旗ハルハのチョクトゥ・ハンを破ってモンゴル高原の覇者となる。ダライ・ラマ5世に協力してチベットも制圧。グーシ・ハーンの死後は分裂。ダライ・ラマ5世の死後、ホシュートの一派がダライ・ラマ6世を廃位することになる。



生誕当時の状況

モンゴル帝国の崩壊後、モンゴル帝国の庇護を受けていたチベットのサキャ派政権は間もなく崩壊し、チベットの各宗派はそれぞれ独自にモンゴル高原の諸勢力の庇護を受けるなどして、権力争いが続いた。1358年にパクモドゥ派政権、1433年にリンプン派政権、1565年にツァン派政権へと支配者が代わっていったが、どの政権も支配力はサキャ派政権ほどにはなく、チベットは分裂状態にあった。

後にダライ・ラマを生み出すゲルク派は、当初はパクモドゥ派政権の支援を受けていたが、パクモドゥ派がリンプン派に押されて勢力を弱めると、逆にゲルク派がパクモドゥ派を保護する格好となっていた。

ツァン派政権ができる少し前の1556年モンゴルはチベットを攻撃してゲルク派の僧侶を捕虜とした。モンゴルの長アルタン・ハーンはゲルク派の教えに惹かれ、1577年にゲルク派デプン寺の座主スーナム・ギャツォを招き、ゲルク派に帰依した。そして、スーナム・ギャツォにダライ・ラマ(知恵の海)の称号を与えた[2]:104。なお、スーナム・ギャツォはダライ・ラマの称号を得る前から高僧のトゥルクと見なされていたので、その転生前の人物が1世と2世とされ、スーナム・ギャツォはダライ・ラマ3世となった。この時点でダライ・ラマはゲルク派の活仏の一人にすぎず、まだゲルク派の代表格にはなっていない。

アルタン・ハーンの死後もモンゴルはゲルク派を信仰した。1588年にダライ・ラマ3世が死ぬと、アルタン・ハーンの一族は間もなく生まれたアルタン・ハーンの孫がその生まれ変わりだと主張し、その子が1601年にデプン寺でダライ・ラマ4世として即位した[3]。ところがゲルク派は、対立宗派カルマ派を支援するツァン派政権の王テンスンワンボと対立し1605年に敗北したことから、勢力が非常に弱まった。1617年にダライ・ラマ4世が死去するとゲルク派はさらに弱まり、翌年にはツァン王プンツォク・ナムギェルに要所のラサとデプン寺、セラ寺を奪われた[3]:130。なお、ツァン王がゲルク派を攻撃したのは、ゲルク派が外国勢力であるモンゴルをチベットに入れようとすることに対する危機感からとも言われている[4]:257。
生涯
誕生と認定

ダライ・ラマ5世が生まれたのはダライ・ラマ4世が死去した1617年チベット暦の9月23日である[1]:367。生誕地はラサから南東に100キロメートルほどのヤルルン渓谷にあるチョンギェーで、この地には古代チベット王国(吐蕃)の墓所があった。また、彼は高位の貴族、ルカン族の長の家の生まれであり[1]:367、母はツァン王とのつながりがあった[1]:374。その宗派は攻撃色が薄いニンマ派であった。また、パクモドゥ派に縁故がいた[4]デプン寺

デプン寺は神託に基づき、ダライ・ラマがチョンギェーに転生したと考え[1]:370、1619年、このルカン族の子をダライ・ラマ5世の候補者の一人と見なした。一方1620年、ゲルク派を支援するモンゴルがラサに軍を進め、ツァン王の軍と対峙した。結局、ロサン・チェーキ・ギェンツェン(英語版)(後のパンチェン・ラマ4世、以後本記事では称号を得る前も含めてパンチェン・ラマ4世と記す)とガンデン・ティパのツルティム・チュンペルの仲介により、モンゴル兵の撤退と引き換えに、ツァン王プンツォク・ナムギェルがゲルク派に土地を返却することで決着した[3]:131。

土地を取り戻したゲルク派は、ダライ・ラマの転生者探しを再開した。候補は3人であったが、パンチェン・ラマ4世ともう一人の僧が占いにより、このルカン族の長の子に決定した。なお、ダライ・ラマ選定テストの一つとして、転生前のダライ・ラマの遺品を当てさせる、という方法がある。ダライ・ラマ5世は後に自著の中で、自分がこのテストで何一つ当てられず、選ばれたのは母がツァン王に関係していたという政治的な理由であったと教えられたとのエピソードを披露している[1]:374。

1621年のツァン王プンツォク・ナムギェルの死後、世間にダライ・ラマ5世の転生が発表された[3]。なお、これまでダライ・ラマの選定の際にはゲルク派からツァン王に多額の税を払うのが慣例であったが、ゲルク派はダライ・ラマ5世の際にはこれを拒否した[1]:374。ダライ・ラマ5世は1622年のチベット暦2月25日に即位し、3月18日にパンチェン・ラマ4世による剃髪をもって出家した。この際、パンチェン・ラマから「ロサン・ギャツォ」の名を貰っている。以後は修行と御披露目のためにチベット各地を回り、奇跡や人物像に関するいくつもの逸話を残した[1]:377。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ベリシガツェリタンラサデプン寺チンワル・タクツェ 関連地図(国境は現在のもの)
チベット統一

ツァン王の後を継いだテンキョン・ワンポは、数えでわずか17歳であった。ツァン王はモンゴルの七旗ハルハに属するチョクトゥ・ハン(英語版)と同盟し、勢力の挽回を図ろうとした。

しかし若いツァン王テンキョン・ワンポは人気がなく、妥協できない性格でもあったため、ツァン派政権とゲルク派の対立は深まった。モンゴル高原の部族の多くはゲルク派に味方した。まず1635年、チョクトゥ・ハンの息子アルスランが軍を率いてチベットに来たが、彼は父の意向に沿わずゲルク派の味方をした(そのためアルスランは翌1636年に父チョクトゥ・ハンに暗殺された)。この頃、モンゴルとは別の民族オイラトが力をつけており、その一部族ホシュートトゥルバイフは1637年、チョクトゥ族の内紛を機に青海のチョクトゥ軍3万を破り、ツァン王は軍事的に窮地に立った。翌1638年、トゥルバイフはダライ・ラマと会い、正式にゲルク派の味方となった。なお、当時のダライ・ラマ5世はまだ若く、政治力を発揮したのは側近のソナム・ラプテン(英語版)(ソナム・チュンペル)であった[5]:88。モンゴル高原のトゥルバイフ、後のグーシ・ハーンはダライ・ラマを軍事的に支援した。

軍事的に窮地に立ったツァン王テンキョン・ワンポは、ボン教徒であった[5]:84ベリの王、トンユ(Don yod)と同盟した。ベリ王はゲルク派の拠点リタンを攻撃し、チベット東部の多くを支配するようになった[3]:133。これがかえってオイラトに口実を与えることになり、トゥルバイフは軍を動かし、まずベリ王国を制圧、さらに西に軍を進めてツァンの首都シガツェも落とし、1642年にツァン王テンキョン・ワンポを捕らえて処刑した。ツァン王が保護していたカルマ派の教主カルマパ6世は東部に逃亡した[3]:134。

1642年(ダライ・ラマ5世が25歳の頃)、トゥルバイフはツァン王国の旧首都シガツェにダライ・ラマ5世を呼び、そこにチベット中の僧侶を集めて、ダライ・ラマ5世にチベットでの権威を与えた[3]:135。一方、トゥルバイフはダライ・ラマによりハーンの位を授かり、以後グーシ・ハーンと称した。それまでモンゴル高原でハーンを名乗れるのはほぼチンギス・ハーンの末裔だけであったが(チンギス統原理)、モンゴルの信奉が厚いダライ・ラマの権威により、モンゴル民族以外に対するこの例外的なハーンの称号がモンゴル高原諸勢力の間で認められた。ダライ・ラマ5世はこの授位を利用してオイラトを自分の勢力に引き入れることに成功した[6]:195。これにより、チベットの政権はツァン派政権からダライ・ラマ5世とオイラトへと移った。

なお、モンゴル高原の勢力すべてが必ずしもダライ・ラマ5世を支援したわけではない。特にチンギス・ハーンの直系を自称する七旗ハルハのトシェート・ハーン・ゴンボドルジや、ウバシ・ホンタイジ(ホンタイジは皇太子の音訳、この時代にはホンタイジという名の人が多いので注意)の子パドマ・エルデニ・ホンタイジらは、ゲルク派と直接対立したわけではないが、ゴンボドルジの息子チョナン派の活仏と認定されたり、パドマがカルマ派の反乱に際してカルマ派と手紙を交換していたりと、必ずしもゲルク派やグーシ・ハーンに協力的とは言えなかった[5]


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