ダライ・ラマ12世
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ティンレー・ギャツォ
ダライ・ラマ12世
在位1860?1875
前任
ケートゥプ・ギャツォ
後任トゥブテン・ギャツォ
チベット語?????????????????
ワイリー'phrin las rgya mtsho
転写
(PRC)Chinlai Gyaco
THDLTrinle Gyatso
漢字成烈嘉措
生誕 (1857-01-26) 1857年1月26日
チベットウー・ツァン
死没1875年4月25日(1875-04-25)(18歳)
チベット・ラサ
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ダライ・ラマ12世ティンレー・ギャツォ(チベット文字:.mw-parser-output .uchen{font-family:"Jomolhari","Uchen","Noto Serif Tibetan Medium","Noto Serif Tibetan","BabelStone Tibetan Slim","Yagpo Tibetan Uni","Noto Sans Tibetan","Microsoft Himalaya","Kailash","DDC Uchen","TCRC Youtso Unicode","Tibetan Machine Uni","Qomolangma-Uchen Sarchen","Qomolangma-Uchen Sarchung","Qomolangma-Uchen Suring","Qomolangma-Uchen Sutung","Qomolangma-Title","Qomolangma-Subtitle","DDC Rinzin","Qomolangma-Woodblock","Qomolangma-Dunhuang"}.mw-parser-output .ume{font-family:"Qomolangma-Betsu","Qomolangma-Chuyig","Qomolangma-Drutsa","Qomolangma-Edict","Qomolangma-Tsumachu","Qomolangma-Tsuring","Qomolangma-Tsutong","TibetanSambhotaYigchung","TibetanTsugRing","TibetanYigchung"}??????????????????、1857年1月26日 - 1875年4月25日)は、チベット仏教ゲルク派の有力な転生系譜で観音菩薩化身とされる勝者王(ダライ・ラマ)の12代目[注釈 1]。ティンレ・ギャツォ、ティンレー・ギャムツォ、ティンレー・ギャンツォとも表記される。チベットウー・ツァン地方の生まれ[1]1860年から死去する1875年までのあいだ、ガンデンポタンを行政府とするダライ・ラマ政権の首長の座にあった[注釈 2]。22歳に達する前に亡くなった4人のダライ・ラマ(9世?12世)のうちの最後である。
出生と即位

ダライ・ラマ12世ティンレー・ギャツォは、1857年1月26日、チベットのウー・ツァン地方、ラサ近郊のロカ(山南地区)で、父プンツォック・ツェワンと母ツェリン・ユドンのあいだに生まれた[1]

1856年1月、11世ケートゥプ・ギャツォが謎の死を遂げ、それを受けて即座に12世探しが始まった[2]。候補者は3名あらわれ、首都ラサの民衆の支持を得た大臣らの反対にもかかわらず、摂政ラデン・トゥルクは「金瓶掣籤」と称されるくじ引きで後継者を決めることとした[2]

1858年、くじ引きを制したのは摂政の反対者たちによって支持された少年であった[2]。同年、ダライ・ラマ12世として認定された彼は、ラサに移ってガンデン寺の僧院長だったレティン・ンガワン・イェシ・ツルティム・ギャルツェンより、「ティンレー・ギャツォ」の僧名を得た[1][3]1860年、執政ロサン・ケンラブに僧門の誓いを立て、ラサのポタラ宮「黄金の座」に推戴されて戴冠した[1]
治世
摂政と大臣の政争

12世即位に先だつ1858年1840年代ドーグラー戦争の功績者で勅命大臣のシャタ・ワンチュク・ギェルポ(シェーダ・ワンチュクゲルポ)が、摂政として権力をふるっていたラデン・トゥルクの側近に対する身びいきを告発し、摂政に公印を預ける危険を説いて公印保管員職の創設を提案、みずからその役職に就いた[2]。摂政は彼を背任と共謀のかどで告訴し、1861年、機先を制した摂政によってシャタ大臣は寺院に監禁、さらにニェモ地域のムンカル荘園に追放された[2][3]。ダライ・ラマ12世の即位はこうした政情不安のなかでなされた。

ラデン摂政はさらに武官を派遣してシャタを亡き者にしようと図ったが、シャタ側についたガンデン寺の会計僧ペルテントンドゥプがラサ三大寺(ガンデン寺・デプン寺セラ寺)と協力関係を取り付け、また、チベット政府(ガンデンポタン)の官僚も支援してチベット政府軍と大寺院の若い学僧たちによって編成された軍は摂政の軍を打ち負かした[3]。ラデン摂政とその一派はそのため、の首都北京に逃亡せざるをえなくなった[3]
最期

ガンデン寺・デプン寺の僧俗の官僚をはじめチベット国民の希望を受けて、7歳に満たぬティンレーは政治と仏教の長を引き受けたが、しばらくのあいだはシャタ大臣が執政官として実際的に権限を行使した[3]1873年、18歳になったティンレーはチベットにおける祭政の長となったが、1875年、ポタラ宮において20年の短い生涯を終えた[1]

なお、冒頭に掲げたように9世から12世までの4人のダライ・ラマはいずれも早世しており、木村肥佐生は、その著書『チベット潜行10年』(1958年版)の中で、成人前後に急逝した10世・11世・12世の3人は毒殺による死と推定した[4][注釈 3]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ダライ・ラマ(????????????) は、チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する化身ラマ名跡である。その名は、大海を意味するモンゴル語の「ダライ Далай,?????」と、上人)を意味するチベット語の「ラマ ?????」とを合わせたものである。デエ(2005)p.127
^ ガンデンポタンとは、1642年にダライ・ラマを国主としてチベットに成立したダライ・ラマ政権の行政機関のことである。
^ 木村同書(1982年版)では58年版より婉曲的な表現が用いられ、有力貴族間の権力争いの犠牲になった可能性が高いとしている。木村(1982)

出典^ a b c d e「歴代ダライ・ラマ法王」ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
^ a b c d e デエ(2005)pp.191-199
^ a b c d e 『チベットの歴史と宗教』(2012)pp.73-75


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