ダライ・ラマ11世
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ケードゥプ・ギャツォ
ダライ・ラマ11世
在位1842?1856
前任
ツルティム・ギャツォ
後任ティンレー・ギャツォ
チベット語?????????????????
ワイリーmkhas grub rgya mtsho
発音チベット語発音: [k??t?up cats??]
転写
(PRC)Kaichub Gyaco
THDLKhedrup Gyatso
漢字凱珠嘉措
父ツェタン・ドンドゥップ
母ユンドゥン・ブーティ
生誕 (1838-11-01) 1838年11月1日
チベットカム地方、ガルタル(現四川省カンゼ・チベット族自治州
死没1856年1月31日(1856-01-31)(17歳)
チベット、ラサ
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ダライ・ラマ11世ケードゥプ・ギャツォ(チベット文字:.mw-parser-output .uchen{font-family:"Jomolhari","Uchen","Noto Serif Tibetan Medium","Noto Serif Tibetan","BabelStone Tibetan Slim","Yagpo Tibetan Uni","Noto Sans Tibetan","Microsoft Himalaya","Kailash","DDC Uchen","TCRC Youtso Unicode","Tibetan Machine Uni","Qomolangma-Uchen Sarchen","Qomolangma-Uchen Sarchung","Qomolangma-Uchen Suring","Qomolangma-Uchen Sutung","Qomolangma-Title","Qomolangma-Subtitle","DDC Rinzin","Qomolangma-Woodblock","Qomolangma-Dunhuang"}.mw-parser-output .ume{font-family:"Qomolangma-Betsu","Qomolangma-Chuyig","Qomolangma-Drutsa","Qomolangma-Edict","Qomolangma-Tsumachu","Qomolangma-Tsuring","Qomolangma-Tsutong","TibetanSambhotaYigchung","TibetanTsugRing","TibetanYigchung"}???????????????????、1838年11月1日 - 1856年1月31日)は、チベット仏教ゲルク派の有力な転生系譜で観音菩薩化身とされる勝者王(ダライ・ラマ)の11代目[注釈 1]。ケードゥプ・ギャムツォ、ケードゥブ・ギャムツォ、ケードゥプ・ギャンツォとも表記される。東部チベットのガルタル(ガサール、現在は中華人民共和国四川省カンゼ・チベット族自治州道孚県)の生まれ[1]。父はツェタン・ドンドゥップ、母はユンドゥン・ブーティ[1]1842年から死去する1856年までのあいだ、ガンデンポタンを行政府とするダライ・ラマ政権の首長の座にあった[注釈 2]。22歳に達する前に亡くなった4人のダライ・ラマ(9世?12世)のうちの1人である。
出生と即位

1837年、政務を拒否していたダライ・ラマ10世ツルティム・ギャツォが満21歳の若さで遷化した[1]。公式には体調すぐれず病死したとされる[1][2]。しかし、かれは必ずしも摂政ツェモンリン・ンガワン・ジャンベル・ツルティムの内政に同意をあたえてはいなかったため、内々には摂政によって暗殺されたのではないかとささやかれた[2]

のちにダライ・ラマ11世となる子が生まれたのは1838年11月、チベット東部カム地方の北ガルタルにおいてであった[1]。父はツェタン・ドンドゥップ、母はユンドゥン・ブーティである[1]

10世ツルティム死去後、転生者の捜索がおこなわれ、1841年、まだ2歳であったこの子が認定された。ときのパンチェン・ラマであったテンパイ・ニーパ(テンペー・ニマ、ロサンテンペーニーパ、パンチェン・ラマ7世(英語版))はこの子に対し剃髪の儀を執り行い、「ケードゥプ・ギャツォ」の僧名を授けた[1][3][注釈 3]

11世の生まれたカム地方のガルタルは、かつてダライ・ラマ7世(ケルサン・ギャツォ)が流亡生活を送った地であり、ラサをはじめとする中央チベットと東部辺境地域とのつながりはいっそう深められたこととなる[2]

ダライ・ラマ11世ケードゥプ・ギャツォは1842年5月25日、3歳でラサポタラ宮「黄金の座」に推戴されて戴冠した[1][3]
短い治世

ダライ・ラマ11世の在位期間は約14年間であったが、そのあいだチベットはシク王国に臣従する南西のカシミール地方ドーグラー勢力とのあいだにドーグラー戦争、南に隣接するネパール王国ゴルカ朝とのあいだで発生したネパール・チベット戦争(第二次グルカ戦争とも)を戦い、清朝もまたアヘン戦争の敗北とその後の太平天国の乱の混乱により、いずれの戦争でもチベットに援軍を差し向ける余裕がなかったため、東アジアに対して従来行使しててきた影響力を弱めた[3][4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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