ダライラマ13世
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トゥプテン・ギャツォ
ダライ・ラマ13世
1910年(34歳頃)の写真
在位1879年?1933年
前任ティンレー・ギャツォ
後任テンジン・ギャツォ
チベット語?????????????????
ワイリーthub bstan rgya mtsho
発音IPA: [t?upt?? cats??]
転写
(PRC)Tubdain Gyaco
THDLThubten Gyatso
漢字土登嘉措
?音Tudeng Ji?cuo
生誕 (1876-02-12) 1876年2月12日
チベットウー・ツァン(現在のナン県[1]
死没1933年12月17日(1933-12-17)(57歳)
チベットラサ
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ダライ・ラマ13世(1876年2月12日 - 1933年12月17日)は、第13代のダライ・ラマ。法名をトゥプテン・ギャツォと言う。1878年にダライラマの生まれ変わりと認定された。

当時のチベット大清帝国大英帝国ロシア帝国の勢力争いの渦中に巻き込まれていた。後年フィンランド大統領となるカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、モンゴルへの旅の途中で13世に謁見しているが、その際13世はイギリスに対して懐疑的な一方でロシアへの関係樹立には興味を示していたという。しかし1904年にイギリスは軍隊を派遣して、チベットの中心都市ラサに駐留。ラサ条約に調印するが、清がチベットへの主権を主張して対立。13世は北京に避難し清朝廷の庇護下に入るが、1908年にラサへ帰還した。

1910年に今度は清軍が、イギリスの影響を排除するためとしてチベットに侵攻。13世はシッキムネパールと転々としインドに向かった。清は13世の廃位を宣言するが、1911年の辛亥革命により清は滅亡。しかしその後も清軍の勢力が残り、チベットの民族政権が清軍を駆逐するには1912年までかかった。清に代わった中華民国は13世の地位を保証したため、1913年1月にラサへ帰還。1914年に英国とシムラ条約と締結する一方で、インド亡命中から近代化に着手した。欧米の議院内閣制に倣ってカシャグ(民会)を基盤として大臣を選出するシステムを確立し、郵便切手紙幣の発行・西洋式病院の設置などを行った。また今日広く使われているチベット旗を正式に定めている。
生涯
背景

19世紀のチベットは権力争いが続いた。ラサ政府(チベット中央政府)では、ダライ・ラマ11世1855年に政治の実権を摂政ラデン・トゥルクから譲り受けたが、1856年に謎の死を遂げると、実権は再び元の摂政の手に戻った。ダライ・ラマは12世が継いだが、幼少であり実力は無かった。1862年、摂政に流刑されていた軍実力者でドーグラー戦争の功績者シャタ・ワンチュク・ギェルポ(シェーダ・ワンチュクゲルポ)に同調する勢力が摂政を追放し、この軍実力者が新たな摂政となった。この新しい摂政は対立勢力を迫害するが、2年後の1864年に死んだ。後任の摂政も対立勢力を迫害するが、1872年に死んだ。その後はダライ・ラマ12世の親政となったが、その時期もまた短く、1875年に死んだ。その後は新たに任命された摂政が権力を握った[2]

一方、外交情勢も複雑だった。チベットは乾隆帝時代の1793年に事実上保護領となっていたが[3]1839年アヘン戦争の頃から少しずつ清の影響力が落ちていった。チベットは1855年から1856年に行われたネパール・チベット戦争ネパールに敗北し、その講和条約であるタパタリ条約はチベット不利の条約で、ネパールに毎年一万ルピーの貢納、ネパール商人の関税免除などが定められた[4][5]。また、イギリスは1859年インド大反乱を鎮圧してインドを事実上支配下においており、1861年にはチベット人の住むシッキム王国を保護領とした[6]。また、チベット東部のデルゲ1728年以来清の領土だったが、太平天国の乱に乗じた地元のチベット人領主が反乱を起こし、1865年、清に代わってこれをラサ政府が鎮圧、再びチベットの支配下とした。この頃には清のチベットに対する影響は非常に小さくなっていた。同時期、西洋のキリスト教宣教師も増え始めていたが、これも排斥された[7]。しかし、その後も清は自身をチベットの宗主国と考えていたため、チベットの扱いに関して外国にチベットの意向を聞かずに約束をしたり、外国勢力を排除するチベットの行為に対して外国に代わりに賠償金を支払ったりしていた[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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