ダマスキオス(古希: Δαμ?σκιο? Damaskios 英: Damascius 462年ごろ - 538年ごろ)は、東ローマ帝国初期・古代末期ダマスクス出身の哲学者。新プラトン主義者。アテナイのアカデメイア最後の学頭
(英語版)。529年にユスティニアヌス1世がアカデメイアを閉鎖すると、ササン朝ペルシアのホスロー1世のもとに弟子のシンプリキオスらと一時身を寄せた。
著作に『第一の諸始原についてのアポリアと解』『イシドロス(英語版)伝』などがある。
人物(英語版)伝』、アガティアス『歴史』などがある。
シリアのダマスクスの裕福な家に生まれる[1]。生年は458年から465年の間[1]、462年ごろ[2]と推定される。
青年時代、アレクサンドリアで修辞学者として活動しつつ[1]、哲学者のイシドロスやアンモニオス、アイデシアと知り合い、アイデシアが没した際は弔事を読む[2]。488年ごろ、宗教紛争のためアレクサンドリアを去り、イシドロスと中近東を遍歴した後、490年ごろアテナイに至る[1]。アテナイでは、アカデメイアでプロクロスの二人の弟子マリノス(英語版)とゼノドトス(英語版)に哲学や数学を学ぶ[2]。一旦アテナイを離れた後、515年ごろ戻り[1]、マリノス、イシドロス、ゼノドトスを継いで学頭(英語版)に就任する[2]。
学頭としては、プロクロス没後停滞していたアカデメイアを再興させ[1]、キリキアのシンプリキオスらを引き寄せる[3]。
529年、ユスティニアヌス1世の勅令で異教哲学が禁止され、アカデメイアが閉鎖されると、532年ごろシンプリキオスを含む総勢7人で、学芸保護者として名高いホスロー1世のもとに身を寄せる[3]。しかし期待外れだったためか、やがてみな帰国し、ホスロー1世が外交協定で与えた安全保障のもと晩年を過ごす[3]。
没年は不詳だが、『ギリシア詞華集』所収のダマスキオス作の碑銘詩のオリジナルが、1925年エメサで出土した538年の石碑に発見されたことから、538年にはまだ生きていたと推定される[3][1]。 新プラトン主義的な第一の原理(アルケー)へ至るには、言葉によってではなく「語りえないもの」(アポレートン)によってでなければならないとした[4]。 一者と多様な世界とを繋ぐ三つの仲介者として、「一にして全体」(ヘン・パンタ)、「全体にして一」(パンタ・ヘン)、「一になったもの」(ト・ヘーノーメノン)の「三項」(トリアス)を設定した[5]。 中世西欧では受容は絶無に等しく、ルネサンス期に初めて写本が発見された[6]。 現代では、19世紀初頭のツェラーをはじめ等閑視されていたが、21世紀ごろから徐々に再評価されている[7]。再評価した一人にピエール・アド
思想
受容