ダビデ
David (??????, ???????)
イスラエル国王
ダビデ像(ニコラス・コルディエ作、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂)
在位紀元前1000年 - 紀元前961年
出生紀元前1040年
ベツレヘム
死去紀元前961年
イェルサレム
配偶者ミカル
アヒノアム
アビガイル
マアカ
ハギト
アビタル
エグラ
バト・シェバ など
子女アムノン キルアブ アブサロム タマル アドニヤ シェファトヤ イトレアム イブハル エリシュア エリフェレト ネフェグ ヤフィア エリシャマ ベエルヤダ エリフェレト エリモト ソロモン ナタン ショバブ シムア 名不詳の子
王朝ダビデ朝
父親エッサイ
母親不明
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ダビデ(ヘブライ語: ???
D?w?? (ダーウィーズ)、 ギリシア語: Δαβ?δ, David、アラビア語: ???? D???d)は、古代イスラエルの王(在位:前1000年 - 前961年頃)とされる人物。ダヴィデ、ダヴィドとも。愛された人の意味。聖書以外の考古学的根拠に乏しいため、史実性は議論中である[1]。
羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死したのちにユダで王位に就くと、ペリシテ人を撃破し要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となり、40年間、王として君臨した。旧約聖書の『サムエル記』および『列王記』に登場し、伝統的に『詩篇』の作者の一人とされている。イスラム教においても預言者の一人に位置づけられている。英語の男性名デイヴィッド(David)は彼の名に由来する。
旧約聖書による生涯
少年期から即位までダビデの父エッサイ(イングランド:オール・セインツ教会)
イスラエルの最初の王であったサウルは、アマレク人との戦いで主なる神の命令に背き[2][3]、その寵を失った。
神の命をうけたサムエルは新たな王を見出して油を注ぐべく、ベツレヘムのエッサイなる人物の元に向かった。そこでサムエルはエッサイの第八子で羊飼いの美しい少年ダビデに目をとめてこれに油を注いだ。その日以降、主の霊はサウルを離れてダビデに激しく臨むようになり、サウルは主から来る悪霊にさいなまれるようになった[4]。そこで家臣たちが竪琴の巧みな者を側に置くように進言し、戦士であり竪琴も巧みなダビデが王のもとに召し出された。ダビデが王のそばで竪琴(ベゲナ(英語版))を弾くとサウルの心は安まり気分がよくなった[5]。
その頃、サウルとイスラエル人たちはペリシテ人との戦いを繰り返していた。ペリシテ最強の戦士でガト出身のゴリアト(ゴリアテ)はしばしば単身イスラエル軍の前に現れて挑発を繰り返し、イスラエル兵はこれを恐れた。従軍していた兄たちに食料を届けるために戦陣をおとずれたダビデは、ゴリアトの挑発を聞いて奮起し、その挑戦を受けることを決意した。サウルの前にでたダビデはサウルの鎧と武器を与えられて身にまとったが、すぐにこれを脱ぎ、羊飼いの杖と石投げだけを持って出て行った。
ゴリアトはダビデを見ると「さあ来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と侮ったが、ダビデは
お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かってくるが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。
と答えた。ダビデが石を投じるとゴリアトの額にめり込み、ゴリアトはうつぶせに倒れた。ダビデは剣を持っていなかったので、ゴリアトの剣を引き抜いてその首を落とした。ペリシテ軍はこれを見て総崩れになり、追撃したイスラエル軍は大いに勝利した[6]。「ダビデとゴリアテ」(オスマール・シンドラー作、1888)
その後、ダビデは出陣の度に勝利をおさめ、人々の人気を博した。サウルはこれをねたみ、ダビデを憎むようになった。サウルはペリシテ軍の手によってダビデを亡き者にしようとたびたび戦場に送り込んだが、ダビデはことごとく勝利をおさめ、サウルの娘ミカルをめとった。ここにいたってサウルは家臣たちにダビデ殺害の命令を下したが、サウルの息子ヨナタンはダビデの大親友であったので、ダビデにこれを告げ、ダビデは死地を逃れた。その後もサウルは幾度もダビデの命を狙ったが、すべて失敗した。
サウルの手を逃れて各地を転々としたダビデであったが、あるとき、エン・ゲディの洞窟に隠れているときにサウルがそこに入ってきた。ダビデの周囲の者たちはサウルを仕留めるように勧めたが、ダビデはこれをせず、ひそかにサウルの上着の裾を切り取った。ダビデは何も気づかずに洞窟を出たサウルに裾を示し、害意のないことを告げた[7]。また、別の機会にサウルがダビデを討つべく出陣したときに、ダビデがサウルの陣内に侵入するとサウルと従者が眠りこけていた。ダビデの従者は再びサウルを討つことを進めたが、ダビデはこれを拒み、王の槍と水差しをもって陣営を出た。ダビデは再びサウルに害意のないことを告げた。グイド・レーニ『ゴリアテの首を持つダビデ』ウフィツィ美術館 1604年頃
その後、神の寵愛を失っていたサウルはペリシテの軍勢の前に敗れ、息子たちとともにギルボア山に追い詰められた。ヨナタンを含む息子たちは戦死し、サウルは自ら剣の上に身を投じて死んだ[8]。サウルとヨナタンの死を聞いたダビデは衣を引き裂いてこれを嘆いた[9]。ダビデは神の託宣を受けてユダのヘブロンへ赴きそこで油を注がれてユダの王となった[10]。
ユダの一族を率いたダビデは、サウルの後を継いだサウルの息子イシュ・ボシェト率いるイスラエルの軍勢と戦いを繰り返した。イシュ・ボシェトは昼寝中に家臣に殺害され、その首がダビデの元にもたらされた。ダビデはイシュ・ボシェトを殺害した2人を殺して木につるした。ここに至ってダビデは全イスラエルの王、指導者になり、エルサレムに進撃してそこを都とした[11]。 エルサレムを都としたダビデはペリシテ軍を打ち破り、バアレ・ユダにあった神の箱をエルサレムに運び上げた。ダビデがヘブロンで即位したのは30歳のときであり、7年6ヶ月の間ヘブロンでユダを治め、33年の間エルサレムでイスラエル全土を統治した[12]。ダビデはペリシテ人だけでなく、モアブ人、アラム人、エドム人、アンモン人も打ち破り、これらを配下に収めた[13]。 ダビデは晩年、家臣ウリヤ (ヒッタイト)
ダビデ王の治世とその晩年
ダビデは、中央集権的君主制を樹立し、傭兵の軍隊を組織した。そして、税を徴収するために人口調査のような改革策をいくつか実施した。これらの改革案が人々に衝撃を与えた。ダビデは、いつの間にか王国を主なる神のものではなく、自分のものとしていた[15]。ユダヤ教の原本成立も、この頃である。
年老いたダビデ王は体が暖まらなかったのでシュネムのアビシャグという美しい娘を傍らに置いて自らの世話をさせた[16]。そんな折ハギトの子アドニヤがダビデを差し置いて自ら王を名乗るという事件が起こった。ナタンとバト・シェバはこれを聞いてダビデのもとに赴き、息子ソロモンを次の王にするという誓いをたてさせた。祭司ツァドクはソロモンに油を注ぎ、ここにソロモンがイスラエルの3代目の王となった[17]。