ダバオ市
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ダバオ市
Davao City
Dakbayan sa Dabaw
Lungsod ng Dabaw


市章

標語 : "Love, Peace, and Progress"
位置

ダバオ・デル・スル州とダバオ市の位置
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯7度4分 東経125度36分 / 北緯7.067度 東経125.600度 / 7.067; 125.600
歴史
市の成立1937年3月16日
行政
フィリピン
 地方ダバオ地方
 市ダバオ市
市長サラ・ジマーマン・ドゥテルテ=カルピオ
地理
面積 
  市域2,444 km2 (943.6 mi2)
標高22.3 m (73 ft)
人口
人口(2010年[1]現在)
  市域1,449,296人
    人口密度  558人/km2(1,445.2人/mi2)
その他
等時帯PST (UTC+8)
市外局番082
公式ウェブサイト : https://www.davaocity.gov.ph/

ダバオ市(英語: Davao City、タガログ語: Lungsod ng Dabaw、セブアノ語: Dakbayan sa Dabaw)は、フィリピン南部ミンダナオ島ダバオ地方 (Davao Region, Region XII) のダバオ・デル・スル州にある、メトロ・マニラメトロ・セブセブ市とその周囲)に次ぐフィリピン第3位の都市である。面積2,400km22010年現在の人口は約145万人[1]国際空港を持ち、フィリピン南部の政治経済文化の中心地である。実際の所ダバオ市は州から独立をしているが、ダバオ・デル・スル州の一部として見られることもある。またダバオ地方の中心都市としても位置づけられている。2,400km2もの広さを誇るダバオ市は世界最大の行政面積を持つ都市の一つともされる。人口は145万人だが、昼間人口は約200万人である。
概要

スペイン人による征服は19世紀と遅く、それまでは先住民イスラム教徒が集落を開いて暮らしていた。この都市が発展したきっかけは、20世紀初頭の日本人によるアバカ(マニラ麻)栽培の農園経営であり、当時は2万人の日本人が住む東南アジア最大の日本人街もあった。現在でも多くの日系人が住み、定年を迎えた日本人の移住先としても注目されている。

現在は木材の積出港であるほか、郊外にはドール社による広大なバナナプランテーションが広がり、その加工や輸出でも有名である。近年はアメリカ企業によるコールセンター業務などのアウトソーシング先として開発されており、巨額の収益が期待されている。
地理アポ山

ダバオ市はミンダナオ島に南から切れ込んだダバオ湾に面した港湾都市である。街の東にある海岸の対岸には、サマール島(フィリピン中部ビサヤ諸島サマール島との区別のため、アイランド・ガーデン・シティ・オブ・サマールという正式名称がある)が浮かび、街の西には雄大な火山アポ山がそびえている。

ダバオ市の行政面積は2,443.61km2もあり、都市としては世界最大級の広さである。市域は3区に分かれ、バランガイ(集落)は184を数える。市域の面積の50%は植林地や熱帯雨林である。農業用地は43%で、ダバオの基幹産業が今でも農業だということを示している。国内外に販売するバナナパイナップルコーヒーココナツを栽培する巨大プランテーションが農地のほとんどを占めている。

現況では、住居・施設・商業・工業用地としての部分は市の10%である。土地利用計画では、開発可能な区域を市域の15%、農業用地を最大67.19%とし、残る17.68%を森林保存のために残しておくことになっている。
気候

ダバオ市は太平洋から山脈で守られており、台風が発生する海域より南側に位置するため台風被害が少ない。天候は特に雨季乾季がなく、降雨量、気温、湿度、気圧なども一年を通し変化が少ない。こうした天気の予測のしやすさは、農業生産にとって大きな利点になっている。気温は20度から32度の間で、年平均降水量は2,000 mmである。

ダバオの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)30.9
(87.6)31.2
(88.2)32.3
(90.1)33.0
(91.4)33.0
(91.4)31.6
(88.9)31.4
(88.5)31.6
(88.9)31.8
(89.2)32.1
(89.8)32.1
(89.8)31.4
(88.5)31.9
(89.4)
日平均気温 °C (°F)26.4
(79.5)26.6
(79.9)27.3
(81.1)28.0
(82.4)28.0
(82.4)27.2
(81)27.0
(80.6)27.1
(80.8)27.3
(81.1)27.4
(81.3)27.4
(81.3)26.9
(80.4)27.2
(81)
平均最低気温 °C (°F)21.9
(71.4)22.0
(71.6)22.3
(72.1)23.0
(73.4)23.0
(73.4)22.9
(73.2)22.7
(72.9)22.7
(72.9)22.8
(73)22.8
(73)22.7
(72.9)22.4
(72.3)22.6
(72.7)
降水量 mm (inch)114.7
(4.516)99.0
(3.898)77.9
(3.067)144.9
(5.705)206.7
(8.138)190.1
(7.484)175.9
(6.925)173.2
(6.819)180.1
(7.091)174.8
(6.882)145.7
(5.736)109.7
(4.319)1,792.7
(70.58)
平均降水日数171412111519181717192020199
出典:PAGASA[2]

歴史
先住民バゴボ人と「ダバオ」の語源ダバオ川

地方史家によれば、「ダバオ」の語源は、ミンダナオ南部周辺に住む先住民バゴボ人の3つの支族が、ダバオ湾に注ぐダバオ川を指すのに使った言葉が混ざり合ったものという。市の後背地の丘陵地帯に住む先住民オボ族(ウボ族)は、この川をダヴォー (Davoh) と呼んだ。ダヴォーとは「高い丘の向こう」を指し、ダバオ川河口の高いうねった丘に囲まれている町をそう呼んでいた。丘の海の中間に住むクラタ族(ギアンガ族)はこの川をドゥフォウ (Duhwow) またはダヴァウ (Davau) と呼んでいたが、森から採れる物をや日用品と物々交換する川沿いの交易の町のことも指していた。最も低地に住むタガバワ族はこの川をダブ (Dabu) と呼んだ。
スペイン人による征服とアメリカ統治

スペイン人は16世紀セブマニラなどフィリピンの大部分を征服したが、その影響がミンダナオ島の南側やダバオに及んだのは非常に遅く、19世紀になってからである。1847年、ドン・ホセ・ウヤングレン (Don Jose Uyanguren) に率いられた探検隊が、現在のボルトン川沿いにあったマングローブの沼地にキリスト教徒の入植地を設立した。その頃ダバオ周辺はモロ人ムスリムであるマレー系人)の首長(ダトゥ)、ダトゥ・バゴ (Datu Bago) が支配しており、彼の町はダバオ川の川岸にあった(当時は、バゴボ人はダバオ川をタグロック川 Tagloc River とも呼んでいた)。両者は戦闘になったが、ウヤングレンがダトゥ・バゴを破った。彼はスペインの故郷を記念して、この地域をヌエヴァ・ギポスコア (Nueva Guipozcoa) と改称し、最初の統治者になったが、この地の開発にかけた彼の努力は実を結ばず、密林は豊かな農地にはならなかった。

1900年、フィリピンを事実上支配下に置いたアメリカ軍がこの地に上陸して統治を開始すると、個人農園の開拓が進み輸送・通信手段が改善され、この地方の経済的発展の端緒が開かれた。
ダバオ日本人社会ダバオの日本人街(1930年代)ダバオの日本人学校(1939年)。日本人と現地人の結婚も多く、生徒の半数以上が混血という学校もあった[3]

兵庫県出身でマニラで雑貨商を営んでいた日本人実業家、太田恭三郎(1876-1917[4])はこの地に目をつけ、1903年、広大な土地を開発する許可を受けてアバカマニラ麻)とココナツのプランテーションを作り上げた。当時日本沖縄から多くの労働者がマニラとバギオを結ぶ高原道路・ベンゲット道路の過酷な工事に従事していた。ベンゲット道路(en:Kennon Road)は1898年からフィリピンを支配し、マニラに総督府を置いた米国が、夏の間の行政機能をバギオに移すために1901年に着工し、難工事の末、1905年に完成させた全長約41qの道路である[5]。太田は工事で疲労困憊した彼らをダバオに誘い外国人経営の農園で働かせた[3]。マニラ麻は船舶用のロープの原料として飛ぶように売れ、フィリピン法にのっとって会社を設立すれば外国人でも土地を所有できることを知った太田はベンゲット道路で労働していた沖縄県人のリーダー・大城孝蔵らとともに、農園と工場をあわせた「太田興業株式会社」を1907(明治40)年5月に設立、これが日本人による最初のダバオでの会社だった[3][6]。1914年には伊藤商店(現伊藤忠丸紅)の援助を受けた古川拓殖株式会社が設立され、太田興業とともにダバオにおける二大アバカ麻会社となった[3]。1918年には日本人経営の会社は60社にのぼり、日本人の経済進出が目立つようになると、フィリピン国内でこれを警戒する排日世論が高まり、1919年、6割以上の株式をフィリピン人か米国人が保有しない限り土地を払い下げないという日本人に不利な新土地法が制定され、日本人殺傷事件も頻発した[3]

1910年代、日本人移民、とくに大城孝蔵の呼び寄せによる沖縄県からの移民が増加し、第一次世界大戦景気でロープも大いに売れたこともあり1916年には1万人の日本人が住むに至った。大戦後不況で多くの日本人がダバオを離れたが、沖縄県出身者はとどまり、1938年にはダバオに1万8千人住んでいた日本人のうち沖縄県出身者が7割を占めた。太田は激増する農園需要と日本人移民の居住地を満たそうとバゴボ人の首長インタルから土地を獲得し、この場所に多くの人がとどまるように「民多留(みんたる)」と名づけた。ミンタルは日本人町になり、日本人学校、日本語新聞、日本領事館病院、商店、売春宿、仏教寺院、キリスト教会、神社などが作られた。周囲には日本の商社の支援を受けた大手農園・工場や、一から作った中小農園など多くの農園会社が林立しダバオ湾岸には日本人経営のアバカのプランテーションが広がった。またコプラ材木漁業基地、雑貨の輸出入なども日本人によって手がけられた。

一方バゴボ人の頭越しにアメリカ人官僚から土地を獲得する者が増えて現地人と日本人の関係が悪化し、第一次大戦景気の間の麻農園拡張期には100人以上の日本人が殺された。またアメリカ植民地政府は日本人社会の膨張と日本の南方拡大の欲望が結びつくのを警戒し、ダバオ日本人社会を満州国(マンチュクォ)にならってジャパンクォ、ダバオクォと呼んでいた。こうした緊張関係もあったがダバオの麻製造をはじめとした農業・商工業は発展を遂げ、ダバオ経済の半分以上は日本人が支えるようになった。フィリピン人は進んだ栽培技術を日本人経営の農園で身につけ、これがダバオの産業の基礎が農業になることに繋がっている。

ダバオは1937年3月16日に正式に市となった。しかし数年後、太平洋戦争の開戦で日本人社会はアメリカ領フィリピンの中で厳しい目にさらされ、日本人はフィリピン人やアメリカ人たちによって強制収容された。しかし1941年12月20日未明、日本軍がミンダナオ島に上陸、当日のうちにダバオは占領された[7]。日本の軍政が始まると日本人移民は解放され、逆に多くのフィリピン人が殺された。街の日本化が進む一方、アメリカによるフィリピン・コモンウェルス政府を通じた間接支配で事実上自治を手にしていたフィリピン人は日本人や日本軍に対して敵愾心を抱き、1944年にフィリピン奪回を開始したアメリカ軍を熱狂的に迎えゲリラ活動に参加した。ミンダナオ島の戦いでダバオ市、とりわけ日本人街ミンタルは最激戦地となった。日本軍と民間人は山岳部に退却したが、戦闘やゲリラ襲撃、病気や飢餓で山中を彷徨していた兵士・民間人数万人が死亡した。以後、生き残った日本人移民は抗日運動を恐れ日本人である証拠を消し、戦後相当の年月がたつまでフィリピン人としてひっそりと暮らすことになる。

2006年6月6日付け「まにら新聞」の記事によると、2005年10月時点で、マニラ総領事館ダバオ駐在官事務所(当時。現・在ダバオ日本国総領事館)管轄邦人数は3ヶ月以上の長期滞在人数は165人、永住者は120人となっている。ダバオの永住者の比率は42.1%となり、マニラの15.4%、セブの23.2%に比べ「永住志向」が高い。

1949年8月1日ポツダム政令「旧日本占領地域に本店を有する会社の本邦内にある財産の処理に関する政令」(「在外会社令」)により、太田興業はじめ40数社あった日本の在外会社は財産放棄し、すべて喪失した[6]。古川拓殖や太田興業の耕地や施設はフィリピン国立麻会社「ナフコ」が引き継いだが、ほどなくして荒廃した[6]
戦後のダバオケソン大通り

戦後のダバオ周辺は一転してドールチキータなどアメリカの大規模農業会社による果樹のプランテーションが広まった。ダバオはマニラに次ぐ大都市として繁栄し、特に人口過剰なフィリピン北部や中部の農民を受け入れ拡大した。しかし1970年代以降、ムスリムの分離独立を訴えるモロ・イスラム解放戦線 (MILF) や大地主やプランテーションの打倒を目指す新人民軍 (NPA) による内戦がミンダナオ島山岳部で起こり、ダバオは比較的平穏ながらもその影響を受け、また1980年代には農産物の市場価格の下落がダバオ経済をゆすぶり犯罪や貧困が増加した。


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