ダノン
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サラエボ出身の指揮者については「オスカー・ダノン」を、競走馬冠名については「ダノックス」をご覧ください。

Danone S.A.
種類株式会社
市場情報Euronext: BN
CAC 40 Component
業種食品加工
設立スペイン バルセロナ
(1919年 (105年前) (1919))
創業者イサーク・カラッソ(英語読み:アイザック・カラッソ)
本社 フランス パリ9区
オスマン通り
事業地域世界規模
主要人物Franck Riboud (Honorary Chairman), Emmanuel Faber (Chairman and CEO)
製品乳製品, ボトルウォーター, 離乳食, 医療用栄養食
売上高?22.412 billion (2015)[1]
営業利益?2.892 billion (2015)
利益?1.398 billion (2015)[1]
総資産?32.712 billion (end 2015)[1]
純資産?12.669 billion (end 2015)[1]
従業員数99781 (end 2015)[1]
子会社The Dannon Company (US)
Evian
ウェブサイトwww.danone.com
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目ではを扱っています。閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。ダノン工場のある国々

ダノン(: Danone S.A.)は食品を手がける多国籍企業ユーロネクスト・パリに上場し、フランスパリに本社を置いている。

ヨーグルトミネラルウォーターシリアル食品ビスケットなどの製品を世界的に製造・販売している。経営体としてのルーツはガラス工業のBSN(Boussois-Souchon-Neuvesel)にある。BSNは1981年ダノンを買収し、多角化の末1994年に社名をダノンに改称した。

2014年現在もBSN創業者一族(Riboud, シュルンベルジェのジャンを輩出)がダノンを代表している。ただし同年から、ベイン・アンド・カンパニーベアリングス銀行でキャリアを積んだエマヌエル(Emmanuel Faber)がCEOである。
名前の由来

創業者イサーク・カラッソ英語読み:アイザック・カラッソ)の子 Daniel Carasso (en)のカタルーニャ語での愛称の一つから命名された。
歴史
ベアトリス解体まで

ダノン(Danone)の歴史は、1919年アイザック・カラッソによってバルセロナに設立された小さなヨーグルト工場から始まった。工場の名前は、息子ダニエルの愛称「ダノン(Danone)」とした[2]。10年後、最初のフランスでの工場ができたが、第二次世界大戦の間に、ダニエルは会社をニューヨークに移し、ダノン・ミルク(Dannon Milk Products Inc.)を設立した[注釈 1]。1959年、ダノンがベアトリス・フーズ(Beatrice Foods)に買収された[3]。ベアトリスは合衆国が1970年代初頭の慢性インフレに陥るまでに、エイビスレンタカートロピカーナも買収してマンモス企業となった。拡大経営に疲れたベアトリスは、1981年ダノンを記事の主役であるBSNに、1985年化学部門をインペリアル・ケミカル・インダストリーズに、1988年トロピカーナをシーグラムに売却した。1986年にはコールバーグ・クラビス・ロバーツ(KKR)がベアトリスをレバレッジド・バイアウトの標的に掲げ、そこへマイケル・ミルケンのドレクセル・バーナム・ランバート(Drexel Burnham Lambert)も参加して、ばらばらに解体した残りを1990年コーンアグラ・ブランズに売り渡した。
ベルギーを背にして

1958年、アントワーヌ(Antoine Riboud)がリヨンで一世紀近く続いていた大叔父のガラス工場を相続した(Souchon-Neuvesel)。1966年、ノール県板ガラス会社(Glaces de Boussois)と合併しBSNとなった。1968年、パリバラザードABNアムロから支援を受けてサンゴバンにレバレッジド・バイアウトを仕掛けた。ウォールストリート・ジャーナルが「勇者ダビデ(BSN)が巨人ゴリアテ(サンゴバン)に挑む」と書きたてた買収運動であったが、テロリストがアントワーヌのアパートを爆破する事件と、サンゴバン株主の必死な救援とにより、サンゴバンが防衛に成功した。以降BSN は急に水と醸造へ進出した。1970年エビアンクローネンブルグとヨーロッパビール(Societe europeenne de brasserie)を買収したのである。1973年BSNはダノンと出会った。GD(Gervais Danone)と合併したのである。一連の経営拡大はキャッシュより証券を利用して行われたので、BSN はオイルショックを耐える力をセーブできた。1973年にはスペインのエバンザ(Ebamsa)を傘下においた。1978-79年にスペインとベルギーの醸造業へ資本参加したが、敷居は高かった。フランス政府の「同伴」で、予めBSN はジェームズ・ゴールドスミス(ジミー)のジェネラル・オクシデンタル(Generale Occidentale)と株式交換し、フランスの食品製造4社を吸収していた。[4]
欧州レベルの分業化

1980年、BSN は西ドイツの板ガラス事業をピルキントンに売却した。それからはドイツ・オーストリア・ベルギー・オランダの板ガラス子会社を売り払った。1982年にはノール県(Boussois)の工場を処分して板ガラスから完全撤退した。BSNがベアトリスからダノンを買収したのは、このような整理が進んでいた1981年のことであった。1983年にGDがBSNと改名した。ミッテランの後押しでBSNはオートメーション化により従業員千人を解雇した。1984年7月、業績回復に水を差す形で、BSNとサンゴバンがベネルクスのガラス市場で価格カルテルを結んでいたとして欧州経済共同体が両社におよそ320万ドルの制裁金を課した。1985年、BSNはガラス瓶等の生産事業をVC(Verrerie Champenoises)に売却して、現金の代わりに同社の株式を受け取った。1986年、LU(Lefevre-Utile)の親会社であったジェネラル・ビスケット(Generale Biscuit S.A)を買収した。西ドイツのゾネン・バサマン(Sonnen Bassermann)も買収した。1988年8月、ベルギーのマースビール(Maes)、イギリスのHP食品(HP Foods)、アメリカのLP(Lea & Perrins)の三社を買収した。同年KKRがRJRナビスコ(1999年からナビスコ)を買収したが、翌年BSNがRJRナビスコのヨーロッパ事業を25億ドルで買収した。BSNは1986年にイタリアのパスタ会社(Angelo Ghigi)を買収したが、1989年も企業買収という名の「イタリア政策」を実現した。[4]
さらばジミー

1990年、BSN はシャンパンのランソン(Lanson)とポメリー(Pommery)をLVMHへ31億フランスフラン(6億USドル超)で売却した。1992年、アニェリ家(Agnelli family)とネスレペリエの支配権を争った。そこでBSNはネスレに接近し、ネスレがBSN にボルヴィックを5億ドルで売却することとなった。1994年なかごろ、BSN は社名をダノンと改めた。1990年代初頭にBSNが遂げた急激なグローバル化もあって、グループの収益にガラス分野は一割も貢献していなかった。1996年、アントワーヌが引退して息子のフランク(Franck Riboud)がダノン会長兼CEOとなった。この年、娃哈哈と合弁事業を立ち上げた(Wahaha Joint Venture Company)。1998年、パンザニ(Panzani)をパリバに、キャラメルバー(Carambar)をキャドバリーに売却した。マイユとアモラ(Amora, 現ユニリーバ)も処分された。HPやLPは手元に残した。1999年、ダノンはガラス産業からの完全撤退に動いた。コンテナ事業はゲレシャイマー(Gerresheimer)の瓶詰め事業と合併させた(BSN Glasspack)。この新事業に関し、ダノンの持分は44%で、残りは全部CVC キャピタル・パートナーズが保有した。2000年、マッケソン(McKesson Water Products Company)のペット詰め事業を11億ドルで買収し、ダノン飲料の販路をアメリカに大きく広げた。イギリスではUB(United Biscuits)から地球規模での営業譲渡を受けた。[4]
預言者フランク

2001年ストニフィールド(Stonyfield Farm)株を39%、2003年末に80%を取得、同社を傘下におさめた。2001年ヨーロッパで従業員二千人を解雇、2002年ガルバーニ(Galbani)を処分した。2003年、最後のガラス事業の持分をすべて処分した(BSN Glasspack)。ここでフランクの整理方針が概ね実現し、経営する産業分野はデイリーと水とビスケットに絞られた。それ以外ではHP食品・LP・淘大食品のソースと、スペインのマオウビール(Mahou)株を33%保有するのみとなった(これら余剰は2006年1月までに全て売却された)。さてそれからのダノンは世界食料価格危機を知ってかビスケットもリストラするようになった。2004年ジェイコブズ(Jacob's)をUB に売却したのである。一方、2002年から進んでいたコカ・コーラとの提携が2005年に合弁事業を買収され解消してしまった。しかしコカ・コーラはエビアンを北米で売り続けた。「ナショナル・ディフェンス」を前に、ダノンは競争圏の事業を投げ売るしかなかった。確固たる意志もなかった。なぜならダノンには支配株主がいなかったのである。ネスレユニリーバクラフトフーヅ、コカ・コーラといった大物に買収されるかもしれないと、しばしば噂された。[4]

オーナー的存在を欠く実態は、ミューチュアル・ファンドの躍進であったろうと考えられる。当時、彼らの主たちはグローバル化したばかりの光海底ケーブルも濫用して、仲間内に短期取引と時間外取引を協定し、不正競争に手を染め利益をあげていた。
娃哈哈との決別

2006年までに娃哈哈がLUとエビアンに並ぶ主力ブランドに成長した。娃哈哈との合弁事業はグループ収益の5-6%を稼ぎ出していた。2007年に合弁事業の支配権をめぐり娃哈哈と争うまでとなり、あらゆる自救行為と法廷闘争の末、両社は年の瀬に休戦し妥協点を探りはじめた。これが片付いてからダノンは資産構成を劇的に変えた。2007年7月初旬にビスケット事業をクラフトへ53億ユーロで売った。1週間もたたないうちに123億ユーロでヌミコを買収した。これでベビーフードに関しては世界第二位のシェアを手にした。2008年フルコア(Frucor)をサントリーに売却した。2009年、匯源果汁をコカ・コーラに売却しようとしたが中国の公取委は却下した。そこで2010年、プライベート・エクイティ・ファンドのサイフ社(SAIF Partners)株を売却した。このころまでに娃哈哈との合弁事業からも離脱していた。2009年12月、バークレイズのいる南アのクローバー(Clover)を完全支配した。2010年ロシアのウニミルクを買収した。鉱産資源地域の食品市場に対し、巨額を投じてシェアを拡大したのである。2011年、ウォックハルト(Wockhardt)の幼児・医療用食品部門を買収した。2012年、新興市場に対する長期戦略としてモロッコ事業に対する支配率を67%に上げた(2015年10月からCentrale Danone)。2013年8月ヨークランチ(Yocrunch)を買収した。[4]
現在

2022年10月、ロシアで展開する乳製品・植物由来製品部門の売却を表明[5]。2023年7月16日にはロシア政府が傘下のダノン・ロシアの株式を暫定管理する大統領令が発出された[6]
北アフリカ総合会社
アンベスティスマン

モロッコ事業は北アフリカ総合会社(ONA Group)といい、第一次世界大戦後の1919年に設立された[注釈 2]。1928年から第二次世界大戦終戦までゼネラルモーターズの代理店であった。1953年にパリバが全く支配するところとなり、1980年にハサン2世が主要株主となった。これが2010年に解体されるとき、ダノンとクラフトが参加した。解体計画はムハンマド6世コンツェルンが調整した(Societe Nationale d'Investissement)。コンツェルンは1949年創立のフランス国営投信に同名で、1966年に設立され、1994年からカサブランカ証券取引所に株式を上場していた。世界金融危機のピークであった2009年、王のコンツェルンは23億マッドの純益をあげた。この年の55.2億マッドに迫る投資額は、主にサンタンデール銀行からワファバンク(Attijariwafa Bank)の株を10%買った分である。同年からコンツェルンは経営規模を急拡大、翌2010年に北アフリカ総合会社との合併を宣言した。コンツェルンは投資ファンドに対する系列子会社の自律性を大胆に保障した。解体が落ち着いた2013年6月時点で、ラファージュアクサがわずかながらコンツェルンの株式を保有している。前者がホルシムと合併して、2016年にコンツェルンが純益を34%増加させた。ウィキリークスは2009年12月の在モロッコ米大使館による秘密電報を公表して、王宮と総合会社が腐敗した関係にあると非難している[7]
ワファバンク


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