ダニエル・パトリック・モイニハン
アメリカ合衆国上院議員
ニューヨーク州選出
任期
1977年1月3日 ? 2001年1月3日
前任者ジェームズ・L・バックリー
ダニエル・パトリック・モイニハン(Daniel Patrick Moynihan, 1927年3月16日 - 2003年3月26日)は、アメリカ合衆国の政治家(民主党所属)および社会学者。駐インド大使(1973年 - 1975年)や国連大使(1975年 - 1976年)、連邦上院議員(1976年 - 2000年)を歴任した。カトリック教徒。 オクラホマ州生まれ。その後ニューヨーク市に移り、ベンジャミン・フランクリン高校卒業。荷役などの仕事を経て、ニューヨーク市立大学シティカレッジに進学。1年後、アメリカ海軍に入り、V-12海軍大学訓練プログラム(V-12 Navy College Training Program)によってタフツ大学で学び、同大学フレッチャー法律外交大学院で社会学の修士号および博士号取得。またフルブライト奨学生としてロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学。 1950年代、W・アヴェレル・ハリマン(ニューヨーク州知事)のスタッフとして働く。1960年の民主党党大会にジョン・F・ケネディ陣営の一員として参加。ケネディおよびジョンソン政権時代に労働省次官補として「貧困との戦い」と呼ばれた社会福祉政策の立案に携わる。1968年、リチャード・ニクソンの大統領選挙チームに入り、都市問題担当の大統領顧問を務める。1973年から1975年までインド駐在アメリカ大使
略歴
その間、ウェズリアン大学、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学で教鞭をとり、また『コメンタリー』や『パブリック・インタレスト』などの雑誌で都市問題や貧困問題について積極的に発言した。
1984年アメリカ合衆国大統領選挙では、女性初の副大統領候補になったジェラルディン・フェラーロが、中絶に反対する教えを説くカトリック信徒でありながら、中絶を容認する政策を支持していたために、騒動が起こり、同じくカトリックかつニューヨーク州選出で、中絶を容認する政策を支持していたモイニハンも巻き込まれた[2]。 妻のエリザベス(Elizabeth Brennan Moynihan)は建築史家[3]。二人の娘であるマウラ(Maura Russell Moynihan)はニューデリーのアメリカンスクールを経てハーバード大学卒業後、二人組コメディグループ「Moynihan and Green」を結成、1990年にリチャード・アベドンの息子ジョン(John Franklin Avedon)と結婚し、息子マイケル(en:Michael Avedon
家族