ダニエル・シックルズ
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ダニエル・エドガー・シックルズ
Daniel Edgar Sickles
1819年10月20日-1914年5月3日(満94歳没)
ダニエル・エドガー・シックルズ将軍
生誕ニューヨーク州ニューヨーク
死没ニューヨーク州ニューヨーク
軍歴1861年-1869年
最終階級少将
指揮ポトマック軍第3軍団
戦闘

南北戦争

半島方面作戦

セブンパインズの戦い

七日間の戦い


チャンセラーズヴィルの戦い

ゲティスバーグの戦い

除隊後

在スペインアメリカ合衆国特命全権公使
アメリカ合衆国下院議員、
墓所アーリントン国立墓地
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ダニエル・エドガー・シックルズ(: Daniel Edgar Sickles, 1819年10月20日-1914年5月3日)は、話題と議論の多いアメリカ合衆国政治家外交官であり、南北戦争のときは北軍将軍だった。

南北戦争前のニューヨーク州政治家としてシックルズは数多くの公的スキャンダルに巻き込まれたが、最も有名なものは妻の愛人でフランシス・スコット・キーの息子のフィリップ・バートン・キーを殺害したことである。その裁判ではアメリカ史の中で弁護に初めて一時的心神喪失を用い、無罪とされた。南北戦争では最も著名な政治家将軍の一人だった。ゲティスバーグの戦いでは、上官の命令に従わずに実際上防御が不可能な陣地にその第3軍団を移動させ、この行動に関する議論は現在でも続いている。その前線での軍歴は足に砲弾を受けたゲティスバーグで終わった。

戦後、シックルズはレコンストラクション中の軍政府を指揮し、在スペインアメリカ合衆国特命全権公使となり、最後はアメリカ合衆国議会に復帰し、ゲティスバーグの戦場跡保存のために重要な法制化に貢献を果たした。
初期の経歴と政治

シックルズはニューヨーク市で、スーザン・マーシュ・シックルズとジョージ・ギャレット・シックルズ夫妻の息子として生まれた。父は特許専門の弁護士であり政治家だった[1]。シックルズの生年は時として1825年とされることがあり、本人も実際にそのように言っていたことが知られていた。歴史家達はシックルズが年齢の半分もいかない夫人と結婚した時に若く見えるように考えてこの生年を選んだと推測している。シックルズは印刷業を学び、ニューヨーク市大学(現在のニューヨーク大学)で勉強した。ベンジャミン・バトラーの法律事務所で法律を学び、1846年に法廷弁護士として認められ、1843年にはニューヨーク州議会議員となった[1]

1852年、シックルズはテレサ・バジオリと結婚したが、この結婚はシックルズが33歳でテレサが15歳の時のことであり、双方の家の意に逆らったものだった。テレサは年齢の割りに世慣れており、5ヶ国語を話せた。1853年、ニューヨーク市の法人弁護士となったが、間もなくフランクリン・ピアース大統領の指名でジェームズ・ブキャナンの下の駐ロンドン・アメリカ公使館書記官になったことで辞職した。1855年にアメリカに戻り、1856年から1857年にニューヨーク州議会上院議員を務め、1857年から1861年までは民主党員として第35および第36アメリカ合衆国議会で下院議員を務めた。
キーの殺害キーを殺害するシックルズ、1859年

シックルズの経歴はスキャンダルで彩られた。ニューヨーク州議会からは議場によく知られた娼婦のファニー・ホワイトを同伴したことで譴責された。身重の妻を家に残したまま、ホワイトをイギリスに連れて行き、ニューヨーク政界の敵対者の苗字をホワイトの偽名に使ってヴィクトリア女王に紹介したと言われてもいる[1]1859年ホワイトハウスの通り向かいにあるラファイエット公園で、コロンビア特別区地方検事でフランシス・スコット・キーの息子のフィリップ・バートン・キーを拳銃で撃って殺害した。キーはシックルズの若い妻テレサと露骨に情事に及んでいるのをシックルズが見つけていた[2]
裁判

シックルズは数ブロック離れたフランクリン広場の司法長官ジェレマイア・ブラックの家に身を委ね、殺人を告白した。巡査に伴われて自宅に寄った後、シックルズは拘置所に向かい、ワシントンの社交界全てがシックルズに同情的になった。シックルズは面会を許されたので、多くの者が訪れ、拘置所長のアパートを面会の場に使うことを認められた[3]。このことはその留置について幾つかあった奇妙なことの一つだった。当時としては異例となる護身用武器の所持も認められた。新聞は多くの下院議員、上院議員およびその他ワシントン社交界の指導的人物まで、多くの面会者について伝えた。ブキャナン大統領は面会こそしなかったが、個人的なメモを送った。

雑誌「ハーパーズ・マガジン」に拠れば、シックルズにとって妻の母とその牧師が尋ねてきたことが最も心痛むことだった。その二人は、テレサが悲しみ、慙愧の念および後悔に暮れており、結婚指輪を失ったこと(シックルズが家に戻った時に取って来ていた)が耐えられる限度を越えていることだと伝えた。

シックルズは殺人で起訴され、何人かの指導的政治家をその弁護人に確保した。その中には、後に陸軍長官になったエドウィン・スタントンや主席法律顧問のジェイムズ・T・ブラディがおり、シックルズのようにタマニー・ホールの出だった。歴史的な戦略としてシックルズは狂気を申立て、アメリカ史の中で弁護に初めて一時的心神喪失を用いることになった。スタントンは陪審員の前で、シックルズが妻の不貞で狂気に駆られ、キーを撃った時は心神を失っていたと主張した。新聞は間もなく、キーという名のならず者からワシントンの淑女全てを救った英雄としてシックルズのことを書きたてた[4]。"「貴方はここに夫婦の契りの価値を定めた。」と陪席弁護人ジョン・グラハムは叫んだ。その弁護はオセロ、ユダヤの歴史およびローマ法からの引用が詰め込まれ、2日間にわたって続き、後には本にまでなった。タイム article, Yankee King of Spain, June 18, 1945[5]

シックルズが土曜日にテレサから得たあからさまな告白が重要なものと分かった。それは法廷では証拠として使えなかったが、シックルズが記者にもらし、完全に新聞に掲載された。弁護の戦略は、裁判がワシントンの会話での主要な話題となり、全国紙がシックルズに同情的な記事を載せることを確実にすることだった[6]。法廷ではこの戦略がドラマと議論をもたらし、最終的に弁護側の勝利となった。シックルズは無罪となった。シックルズは無罪判決を受けた後で、公にテレサを許し、下院議員を辞職はしなかったが、公的生活から短期間「身を引いた」。当時の道徳的価値観のために大衆は、殺人や前例の無い無罪判決よりも、シックルズが売春婦や姦婦と呼んだ妻を許し、和解したように見えることに怒った[7]
南北戦争

南北戦争が始まった時、シックルズはその公的なイメージを修復したいと考え、ニューヨーク州で積極的に北軍の志願兵連隊を立ち上げることに貢献した。その編成した4個連隊のうちの一つに大佐を指名された。1861年9月には志願兵の准将に昇進し、北軍の中で最も有名な政治家将軍の一人になった。1862年3月、アメリカ合衆国議会がその任官確認を拒んだ時に指揮官を諦めざるを得なかったが、ワシントンの政界で熱心に政治工作を行い、5月24日にその階級と指揮権を両方とも再度手に入れた。軍隊に合流した時は半島方面作戦に間に合った.[1]。この障害があったために、ウィリアムズバーグの戦いではその旅団の重要な戦闘に居合わせなかった。シックルズはそれまで全く軍隊経験が無かったが、セブンパインズの戦い七日間の戦いではポトマック軍の「エクセルシア旅団」を率いて有能なところを示した。第二次ブルランの戦いのときは不在であり、その政治的影響力を使って休暇を取り新しい部隊を徴兵するためにニューヨーク州に行っていた。


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