ダナ・ホワイト
2015年、ロンドンにて
生誕デイナ・フレデリック・ホワイト・ジュニア
(Dana Frederick White Jr.)
(1969-07-28) 1969年7月28日(54歳)
アメリカ合衆国
コネチカット州マンチェスター
住居ネバダ州ラスベガス
職業実業家、プロモーター
著名な実績Ultimate Fighting Championship (UFC)
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ダナ・ホワイト(Dana White、1969年7月28日 - )は、アメリカ合衆国の総合格闘技団体「UFC」のCEO兼社長。数々のスター選手を育て上げている名プロモーターでもある。コネチカット州マンチェスター出身。
UFC日本大会開催(UFC 144)に伴う事前記者会見で、名前の表記についての記者の質問に対して、本人がダナは女の子っぽくなるという理由でデイナを希望してからは[1]、デイナ・ホワイトと表記するメディア媒体が多くなっている。 団体の代表としてロレンゾ・フェティータと共に、競技ルールの整備による競技化の推進、テレビ放送及び視聴形態の拡張、選手の福利拡充、他団体の買収などを実施することで、UFCを短期間で世界規模の、資産価値数百億ドルの団体へと成長させた[2]。(詳細はリンク先のUFCの歴史を参照) プロモーターとしてもコナー・マクレガー、ロンダ・ラウジー、チャック・リデル、アンデウソン・シウバ、ジョルジュ・サンピエール、ジョン・ジョーンズ、ハビブ・ヌルマゴメドフ、ランディ・クートゥア、ティト・オーティズ、BJ・ペンなどのスター選手を育て上げている。 コネチカット州マンチェスターで生まれ、マサチューセッツ州ウェアで育つ。小学3年の時にネバダ州ラスベガスに転居し、進学したビショップ・ゴーマン高校で、後に共同でUFCを買収することになるロレンゾ・フェティータと出会う。しかしダナは停学処分を受けるなど真面目な生徒ではなかったのに対し、ロレンゾは模範的な優等生であったことで、高校時代はそれほど親しくはなく、親しくなったのは、10年近く経ってから共通の友人の結婚式で偶然再会して、お互い好きだった挌闘技の話で意気投合してからである[3]。高校3年の時に祖父母が住むメイン州に転居しハーモン高校を卒業した。 ダナは子供の頃からボクシング中継を毎週欠かさず見る大のボクシングファンで、幼少期からボクシングジムに通うなどしていたが、高校卒業後にボストンのサウスボストンで一人暮らしを始めアイリッシュパブで用心棒の仕事に就いた頃から本格的にボクシングに取り組み、アマチュアボクシングの試合に出場した。プロボクサーを目指していたが、パンチドランカーのボクサーを見て目指すのをやめ、トレーナーに転身した。進学したクインシー・ジュニア・カレッジとマサチューセッツ大学ボストン校を、どちらも1学期も通わずに辞めた後、ボストン・ハーバーホテルでベルボーイとして勤めるが、ボクシング業界で夢を追いかけるため直ぐに辞め、アマチュアボクシングのニューイングランド王者ピーター・ウェルチと共同で若者向けのボクシングジムを開いた。そこで主婦とビジネスマン向けに始めたクラスが当たり成功すると、プロボクサーのマネージメントやボクシングジム経営に進出した[4][5]。しかし成功したことにマフィアの首領ジェームズ・ジョセフ・バルジャーとその子分ケビン・ウィークスに目を付けられ、謂れの無い借金を押し付けられた上に、無視をしていると脅迫されたため、ボストンからネバダ州ラスベガスへ転居した[6][2]。1992年にラスベガスで自身の会社「ダナ・ホワイト・エンタープライゼス」を設立、フィットネスボクシングのジムを複数経営し、ボクシングの指導やプロボクサーのマネージメントを行った。 総合格闘技に興味があったため、ラスベガスでジムを開いていた総合格闘家のジョン・ルイスからフェティータ兄弟と共にブラジリアン柔術と総合格闘技のレッスンを受けるようになり、ルイスから紹介された当時UFCと契約の問題を抱えていたティト・オーティズとチャック・リデルに頼まれマネージャーとなりUFCと交渉を行った[2][7]。 その流れから、当時UFCを運営していたSEG社のボブ・メイロウィッツと会い、UFCの売却先を探していることを知ると、高校時代からの友人で、ネバダ州アスレチック・コミッションにおいてコミッショナーを務めた経験を持ち、ホテルカジノ「ステーション・カジノ」を経営するロレンゾ・フェティータにこの話を持ちかけ説得、2001年にロレンゾとその兄フランクと共に、UFCの親組織「ズッファ(Zuffa, LLC)」を設立して、UFCを買収し代表に就任した[2]。
概要
来歴
UFC
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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