ダナシリ(Dana?iri, ? - 1335年)は、モンゴル帝国第15代皇帝ウカート・カーン(順帝トゴン・テムル)の皇后(カトン)の一人。先々帝ジャヤート・カーンを傀儡としていたキプチャク軍閥の首領エル・テムルの娘であり、当初はウカート・カーンの第一皇后であったが、エル・テムル家の没落とともに地位を失った。
『元史』などの漢文史料では答納失里(d?nash?l?)と記される。 ダナシリの父エル・テムルはイェスン・テムル・カーンの没後にトク・テムル(後の文宗ジャヤート・カーン)を推戴して天暦の内乱を起こした張本人であり、内乱の勝利、トク・テムルの兄コシラの毒殺などの功績によりトク・テムルの即位を実現した。これらの功績によりエル・テムルはジャヤート・カーンを事実上の傀儡とし、絶大な権勢を振るった。 しかし、ジャヤート・カーンは死の間際において兄コシラを毒殺して即位したことを悔い、コシラの遺児トゴン・テムルを後継者とするよう遺言して亡くなった。エル・テムル自身はジャヤート・カーンの遺児エル・テグスを新たなカーンとするべく準備をしていたが、皇后ブダシリとバヤンは遺言をたてにエル・テグスの即位を認めず、両者の妥協案としてまずはトゴン・テムルの弟で生後間もないリンチェンパル・カーンが即位することになった。ところがリンチェンパル・カーンは即位後わずか1か月余りで崩御し、また後を追うようにエル・テムルも亡くなったため、ブダシリとバヤンの意向に沿ってトゴン・テムルがウカート・カーンとして即位することになった。 エル・テムルの死によってエル・テグス推戴が失敗したとはいえ、エル・テムルの後を継いだタンキシュ
目次
1 概要
2 キプチャク部クルスマン家
3 脚注
4 参考文献
概要
しかし、時を経るにつれてバヤンの地位は盤石なものとなってゆき、エル・テムル家の権勢は相対的に下落した。1335年(元統3年/至元元年)、このような状況に不満を抱いたタンキシュは、モンケ家のコンコ・テムルらと組んでクーデターを計画したが、?王チェチェクトゥの告発によって事前に露見し、タンキシュの一族はバヤンによって捕らえられ処刑された。タンキシュの弟の一人タラカイのみはダナシリの下に逃れ、ダナシリは自身の衣服でこれを隠そうとしたが、結局は引きずり出されて殺された。また、バヤンは兄弟が反逆を企んでいたのに皇后ダナシリのみが無関係ということはありえない、と主張してダナシリをも捕縛した。
バヤンに捕らえられた時、ダナシリはウカート・カーンに「陛下、我をお救い下さい」と懇願したが、ウカート・カーンは「汝の兄弟が大逆をなそうとしたというのに、どうして汝を救うことができようか」と述べるのみであったという。捕らえられたダナシリは皇后の地位を剥奪され、上都開平府の民家に幽閉された[3]。それからわずか2か月後、バヤンの命によってダナシリは毒酒によって開平で殺された。ダナシリの死によってエル・テムルの一族は完全に断絶した[4][5][6]。
キプチャク部クルスマン家
欽察国王クルスマン(Qurusman >忽魯速蛮/h?l?suman)
欽察国王バルトゥチャク