ダッハウ強制収容所
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解放直後の正門1997年の収容所記念碑

ダッハウ強制収容所(ダッハウきょうせいしゅうようじょ、独語:Konzentrationslager Dachau)は、ドイツバイエルン州ミュンヘンの北西15キロほどのところにある都市ダッハウに存在したナチス・ドイツ強制収容所である[1]。ナチスの強制収容所の中ではオラニエンブルク強制収容所と並んで最も古い強制収容所と言われ、後に創設された多くの強制収容所のモデルとなった[2][3]。「ダハウ強制収容所」と書かれる事もある[4]

1965年に、強制収容所跡地のうち旧捕虜収容所敷地内にダッハウ強制収容所記念館が開設された。2022年現在、旧捕虜収容所敷地跡とガス室と火葬場跡を含む範囲が収容所記念碑として公開されている。また、記念碑の敷地外にもいくつかのモニュメントが設置されている。

なお、2015年より、強制収容所跡地のうち旧農場跡の一部は、難民をはじめとするホームレスの保護施設として使用されている。
概要

全部で30以上の国々から20万人が送り込まれ、その内の3分の1近くがユダヤ人であった[5][出典無効]。32,099人が収容所内で死亡し、他に約1万人が主に疾病、栄養失調、自殺によりダッハウの支所で死亡した[6]。1945年初頭にナチスの撤退後にチフスが流行し、体の弱っていた囚人の多くが死亡した。

ダッハウより大きいアウシュヴィッツ同様、ダッハウは多くの人にとってナチス強制収容所の象徴になっている。ダッハウ強制収容所はイギリス軍やアメリカ軍に解放された2番目の収容所であったため、多くの人々にとって重要な場所となっている。従って、西側諸国がナチスの蛮行に直に接した最初の場所の一つであった[注釈 1]

当初、解放したアメリカ軍はダッハウでガス室による大量虐殺が行なわれていたと発表した。実際に1942年7月末にナチスはガス室を設置するようダッハウに命令を下しており、ダッハウに偽装シャワー室のガス室がつくられている。しかし、ダッハウでガス室が実際に稼働した事実を証明する資料はない。ダッハウでは絞首刑や銃殺による処刑も他のナチ強制収容所と比べるとかなり少なかった[7]
歴史
創設

ダッハウ強制収容所は、第一次世界大戦の際に火薬工場として使われていたダッハウの町の廃工場を利用して建設された[1][8]。この廃工場とその用地は親衛隊(SS)隊員の兵営にする予定で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権掌握直後に購入した物だった[1]

1933年3月20日にバイエルン州警察長官ハインリヒ・ヒムラーは記者会見を行い、ダッハウ強制収容所の設置を発表した[1][8][注釈 2]。3月22日にダッハウの運営は開始された[1]。この収容所は当初からSSによって運営され、ヒルマール・ヴェケルレ(de:Hilmar Wackerle)SS中佐が初代所長に就任した。3月23日に最初の収容者として60人の政治犯が送られてきた[11]

当初はかなり無法状態で、1933年5月には収容されていたドイツ共産党代議士が4名殺害されたため、ミュンヘン検察局が捜査に乗り出し、ダッハウ所長ヴェケルレSS中佐が殺人罪で告発された[2][11]。これを受けてヒムラーは1933年6月末にヴェケルレSS中佐を解任し、新しい所長としてテオドール・アイケSS上級大佐を任じた[11][12]
アイケによる体系化

アイケは収容者への罰則を体系化するために1933年10月1日に収容所規則を制定した。後にあらゆる強制収容所の罰則として導入された25回鞭打ちの刑、段階別の禁錮刑、減食刑、死刑などの罰則が定められた[12][13]。政治的扇動やデマ、破壊活動、反逆的行為、脱走、看守への暴行の際に死刑が執行されると定めた[13]

また囚人管理を体系化するため、ダッハウの収容者はブロックごとに250人ずつに分けられた。各ブロックごとにSS軍曹のブロック指導者を設置し、ブロック指導者の上にSS曹長の連絡指導者を置き、管理にあたらせた[13]。またならず者ばかりだった収容所警備隊の整理を行い、「親衛隊髑髏部隊」 (SS-TV) を編成させた[14]。ダッハウでアイケによって築かれたこうした体系は、1934年7月にアイケが全強制収容所総監に任命されたことで全強制収容所に拡大されていく。

アイケはユダヤ人を憎悪しており、初期の頃からユダヤ人に対する扱いは苛烈を極めた。国外の新聞にナチス強制収容所についての批判記事が載っているのを見つけるとアイケは「強制収容所の情報が漏れるのはドイツ系ユダヤ人が国外で吹聴しているのが原因」と喚き、収容されているユダヤ人(この段階ではユダヤ人という理由だけで収容されるケースはなく、政治犯の中にたまたまいたユダヤ人である)を真っ暗な抑留棟に閉じ込めたりしていた[13]
第二次世界大戦開戦前

1938年11月、水晶の夜事件の影響で一時大量のユダヤ人がダッハウ強制収容所に収容されたが、彼らは国外へ移住することを条件にほとんどが数週間で釈放された[15][16]。ユダヤ人の収容が本格化するのは戦時中になってからのことである[13]

1936年ザクセンハウゼン強制収容所1937年ブーヘンヴァルト強制収容所が創設されたが、いずれもダッハウ強制収容所をモデルとしていた[17]
第二次世界大戦開戦後

第二次世界大戦が開戦した初期に再建設のため一時ダッハウ強制収容所から収容者が追い出された。ダッハウの収容者たちはフロッセンビュルク強制収容所マウトハウゼン強制収容所などへ移送された[18]。南北に長い長方形の敷地、二重に張り巡らされた鉄条網、その随所に設置された監視塔という他の強制収容所と同じ形状に作り直された。理論収容数も大きく増やされて9,000人が収容可能となった(もっとも1944年秋にはそれよりはるかに多い3万5000人が押し込まれる事になるが)。1940年春にダッハウ強制収容所が再び稼働した[19]

国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒが1941年1月2日に定めた政令によると、ダッハウは庭仕事など軽い仕事に従事することのできる者を収容する「第一カテゴリー」の収容所に属していた[20]


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