ダットサン
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この項目では、ブランドとしてのダットサンについて説明しています。ピックアップトラックについては「日産・ダットサントラック」を、登録名をダットサンとしていた野球選手については「ジーン・ドットソン」をご覧ください。

Datsun Motor Co., Ltd.
種類部門
業種自動車
設立1911年、1932年、2013年
解散1986年 
本社横浜市 
事業地域9カ国
製品低価格車
親会社日産自動車
ウェブサイト公式サイト(英語)

ダットサン(Datsun)は、日産自動車ブランドである。

1986年まで日本国内外で使用していたブランド。

2013年から2023年まで新興国向けに展開していたブランド。

本項目ではその両方について詳説する。
概要旧ロゴマーク

ダットサンの由来は日産自動車の源流である、橋本増治郎が設立した快進社までさかのぼる。1914年大正3年)に完成した乗用車には、支援者であった田健治郎、青山禄郎、竹内明太郎のそれぞれの頭文字であるD、A、Tと、逃げるウサギのように非常に速いことのたとえである「脱兎(だっと)のごとく」にかけて、脱兎号(DAT CAR)と名づけられた[1]

1916年(大正5年)にはダット41型が誕生するが、乗用車の製造は苦戦を強いられ、軍用保護自動車トラック)の製造へ移行する。1924年(大正13年)にはダット41型3/4トントラックが軍用保護自動車検定に合格したが、1925年(大正14年)に快進社を解散し、ダット自動車商会となった。

一方、1919年(大正8年)に久保田権四郎らによって設立し、ゴルハム号やリラー号といった乗用車を製造していた実用自動車製造も同じく苦境に立たされていた。そして、1926年(大正15年)にダット自動車商会と実用自動車製造が合併し、ダット自動車製造が設立した。この実用自動車製造には、のちに戸畑鋳物の鮎川義介に招聘されるウィリアム・ゴーハムが当初技師長として就任しており、その助手に就いていたのが久保田鉄工所(現・クボタ)出身の後藤敬義だった。

ダット自動車製造は、軍用保護自動車を製造する傍ら、1929年(昭和4年)頃から後藤敬義技師を中心に小型乗用車の試作を開始。1930年昭和5年)に試作車が完成し、車名を「DATの息子」の意味のDATSON(ダットソン)とした。DATの定義は、Durable(耐久性がある)、Attractive(魅力的な)、Trustworthy(信頼できる)、に改められた[1]

ダットソン号は量産化を念頭に開発されており、戸畑鋳物および日本産業の鮎川義介は1931年(昭和6年)にダット自動車製造を戸畑鋳物傘下に収める。1932年(昭和7年)には、DATSONの“SON”が日本語の“損”に聞こえ縁起が悪いということから、英語で同音のSUN(太陽)に変え、DATSUN(ダットサン)と改称した(命名はダットサン商会の吉崎良造[1])。

ところが、軍用保護自動車の製造メーカーが統合されることとなり、1933年(昭和8年)にダット自動車製造は石川島自動車製造所(現在のIHIから独立、後のいすゞ自動車。)と合併して自動車工業となった。鮎川はダットサンの商標および旧ダット自動車製造大阪工場を手に入れ、戸畑鋳物自動車部として存続。続けて戸畑鋳物と日本産業の共同出資で設立した自動車製造へ戸畑鋳物自動車部を吸収。1934年(昭和9年)に横浜工場を開設し、自動車製造から日産自動車へ社名を変更した。

「ダットサン」はブランドと同時にトレードマーク(商標)でもあり、車名(車検証等に記載)にも使われた。市場によっても使い分けがあり、たとえば日本では「サニー」のペットネームで販売された乗用車も米国市場では「ダットサン」ブランドが付されていた。

その米国市場ではメーカー名の「NISSAN」よりも何倍もの認知があったにもかかわらず、1981年(昭和56年)に当時社長の石原俊の方針により、「DATSUN」ブランドが順次廃止されることとなった[注釈 1]。海外市場での日産ブランドへの統一以降は、日本市場において日産車の「車名」として唯一存在していたダットサントラック(D22型)2002年平成14年)の排出ガス規制で日本国内向け販売を終了したため、「DATSUN」の名称が一時期途絶えていた[注釈 2]

ダットサンブランドとして販売される車種の型式(かたしき)としては、数字部分の十の位が「1」の乗用車(例:B110型系サニー510型系ブルーバードなど)と、「2」の商用車(例:320型系ダットサントラックやB120型系サニートラックなど)が相当する。2.0 L以上の排気量設定があった初代フェアレディZは例外で、中型乗用車用の「3」(S30型系)が与えられている。

2012年(平成24年)3月20日、当時日産自動車CEOカルロス・ゴーンによって新興市場向けの低価格ブランドとしてダットサンの復活が発表され、併せて新しいロゴも公開された。2014年(平成26年)からGOを手始めとしてインドネシアインドロシアで製造・販売を開始した[2][3][4][注釈 3]。また、パキスタンでは、2020年初頭からダットサンブランドのピックアップトラックの生産販売を行う予定[5]だった。その後販売が低迷し、2022年4月にはダットサンブランドの展開を順次終了することが報道され[6]、2023年6月を以ってダットサンブランドの使用を終了。名実共にダットサンの商標は通算112年の歴史に幕を下す事となった。

インド・インドネシアで2020年から発売されている日産・マグナイトは、当初はダットサンブランドで発売する予定だったが、発売前になってブランドを終息させることになったため、開発の最終段階で日産ブランドに移行している(フロントグリルの形状にダットサンブランド車として開発された名残が見られる)。
沿革

1924年大正13年) - 株式会社快進社、ダット3/4トントラックを軍用保護自動車として生産。

1925年(大正14年) - 株式会社快進社を解散し、合資会社ダット自動車商会設立。

1926年(大正15年) - 合資会社ダット自動車商会と実用自動車製造株式会社が合併し、ダット自動車製造株式会社(本社:大阪)設立。

1931年昭和6年) - 鮎川義介がダット自動車製造を戸畑鋳物株式会社の傘下に収める。

1932年(昭和7年) - 吉崎良造がダットサン商会を設立。

1933年(昭和8年)3月 - ダット自動車製造株式会社と石川島自動車製作所が合併し、自動車工業株式会社設立。戸畑鋳物株式会社に自動車部を創設。鮎川義介が自動車工業株式会社に対し、ダットサンの製造に関する一切の権利を譲渡するよう嘆願し、無償[注釈 4]でダットサンの製造権を譲り受ける。また、旧ダット自動車製造大阪工場を70万円で購入し、製造権と図面技術者を得て、自動車製造が開始される。

1933年(昭和8年)12月 - 戸畑鋳物と日本産業の共同出資により自動車製造株式会社を設立し、戸畑鋳物自動車部を吸収。

1934年(昭和9年) - 自動車製造株式会社が日産自動車株式会社と改名。アジア中南米などに向けて「ダットサン」の輸出を開始する。

1981年(昭和56年) - 輸出ブランド名を「NISSAN」に統一する方針を発表。「ダットサン」ブランドの使用を停止。以後、新型車から「NISSAN」ブランドに変更する。

2012年平成24年) - 新興国向けとして31年ぶりに「DATSUN」ブランドが復活。

2013年(平成25年) - 7月にインドで「GO」を、9月にインドネシアで「GO+」をそれぞれ発表。


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