ダッセル
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紋章地図
(郡の位置)

基本情報
連邦州:ニーダーザクセン州
郡:ノルトハイム郡
緯度経度:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯51度48分12秒 東経09度41分25秒 / 北緯51.80333度 東経9.69028度 / 51.80333; 9.69028座標: 北緯51度48分12秒 東経09度41分25秒 / 北緯51.80333度 東経9.69028度 / 51.80333; 9.69028
標高:海抜 160 m
面積:113.24 km2
人口:

9,511人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:84 人/km2
郵便番号:37586
市外局番:05562, 05564
ナンバープレート:NOM, EIN, GAN
自治体コード:

03 1 55 003
行政庁舎の住所:Kirchplatz 2
37586 Dassel
ウェブサイト: ⇒www.stadt-dassel.de
首長:スヴェン・ヴォルター (Sven Wolter)
郡内の位置

地図

ダッセル(ドイツ語: Dassel, ドイツ語発音: [?dasl?][2])は、ドイツニーダーザクセン州ノルトハイム郡に属す小都市である。
地理

ダッセルはアインベックの西、ゾリングの北東辺縁部、ホルツベルク山地の南から南東部、アムツベルゲ山地の南、エレンザーの森の西にあたる。すなわち、ダッセルはドイツに98ある自然公園の1つであるゾリング=フォーグラー自然公園の端にあたる。海抜528mを最高地点とするゾリング山地のブンテル砂岩の山並みがダッセルの市境に延びている。緩やかな牧草地の谷や清らかな小川によって細かく分割されたアブラナカブ、穀物の畑が絵のような風景を創り出している。市内をシュピュリヒバッハ川が流れ、ダッセルの南東わずか数百 m の場所でイルメ川に注いでいる。
市の構成

ダッセル市は17の地区からなる。行政中心はダッセル地区にある。

 アーメルゼン

 ダッセル

 ダイターゼン

 アイレンゼン

 エレンゼン

 ヒルヴァルツハウゼン

 ホッペンゼン

 フンネスリュック

 クリンメンゼン


 ラウエンベルク

 リュートホルスト

 マッケンゼン

 マルクオルデンドルフ

 ポルテンハーゲン

 レリーハウゼン

 ジーファースハウゼン

 ヴェラーゼン


気候

温帯に位置しており、長年の平均気温から、最低気温が 0 を下回ることはほとんどなく、最高気温が 20 ℃を超えることも滅多にない。1961年から1990年までの間の年間平均降水量は 879 mm で、ドイツの平均値を上回る[3]。風向は西風が主である。
歴史
中世

ダッセルは、826年から876年の間にカール大帝によって征服されたザクセンに属すvilla Dassilaとして建設された[4]

この初期の農民の定住地は、10世紀末の聖ラウレンティウス教会の創立により重要性を増していった。このロマネスク建築はシュピュリヒバッハ川の右岸に建設された。1022年神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世はこの教会をマインツ大司教から取り上げヒルデスハイム司教区の管理下に移管した[5]

1113年のダッセル伯の創設により、ダッセルはその首邑となり、約2世紀の間、政治的・経済的成功の時代を過ごした。この頃、ダッセル伯家の最も有名な人物であるライナルト・フォン・ダッセルによって、ダッセルとマッケンゼンとの間に、フンネスリュック城が建設された。伯が権力中心を南に移動した後は、農民の教会、交易、手工業、市場の町となった[6]13世紀の最後の10年間に伯は急速に権力を喪失、アインベックウスラーといった周辺地域の多くがヴェストファーレン領となり、ダッセルとその近郊の村落はヒルデスハイム司教に売却された。これ以後重要な通商・交易路はダッセルを素通りするようになり、この町の発展はほとんど停止した状態となった。ダッセル市内に遺る中世の市壁跡

1310年、ヒルデスハイム司教によってダッセル周辺地域はヒルデスハイム司教領の飛び地となり、古いフンネスリュック城だけでは不十分でさらなる軍事防衛施設が必要なことが明白となった。こうした背景から、早速1315年にアルフェルトに準ずる都市権がダッセルに授けられ、これにより堀、壁、塔といった防衛施設を建設する資格が付与された。1392年の大火によりロマネスク様式の教会は焼失した。1447年、新しいラウレンティウス教会が完成した。この教会は1519年に再び起きた火災により損傷したが[7]、修復された。

ヒルデスハイム司教は、この飛び地の代官所をフンネスリュック城に置いた。
近世

ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家カレンベルク侯エーリヒ1世及びヴォルフェンビュッテル侯ハインリヒ2世(両者は叔父と甥の関係)とヒルデスハイム司教との間で戦われたフェーデ(1519年 - 1523年)でこの町は砲撃を受け、占領された。1650年頃にマテウス・メーリアンによって作成されたエーリヒスブルク城の銅版画

1523年の平和協定により、ヒルデスハイム司教はダッセルをカレンベルク侯エーリヒ1世に割譲した。エーリヒ1世は、数km北東の湿った低地に1527年から1530年にかけてエーリヒスブルク城を建設した。エーリヒ1世は、この城をダッセルの行政府とした。1539年には、ダッセルにラウエンベルク、リュートホルスト、ポルテンハーゲンを包含するアムト(行政単位)が創設された。

三十年戦争では、1625年にダッセルはティリー伯によって破壊された。戦争の結果、1643年にヒルデスハイム司教は1523年まで領有していた地域を回復した。これにより、ダッセルは再びヒルデスハイム司教領の飛び地となった。また、1523年以前同様、フンネスリュック城が行政中心となった。しかしこの当時、フンネスリュック城は城壁跡を残すだけであり、行政活動を行うためのオフィスに相当する建物が建設された。

1688年、ヒルデスハイム司教ヨプスト・エドムント・フォン・ブラベックによって私営の製鉄所が設立された。七年戦争ではダッセルは通過する軍隊を宿営させ、無償で物資の供給をしなければならなかった。
19世紀から20世紀

ダッセルは1802年プロイセン軍によって占領された。その直後、ティルジットの和約によって数年間ヴェストファーレン王国領となった。ライプツィヒの戦いの結果フランス支配から解放された後、ダッセルは領土分配によってヒルデスハイム司教区の一部であるハノーファー王国領となった。

1811年1848年1850年に繰り返し起こった火災により市の大部分が破壊された。貧困をリンネルの生産と販売によって克服しようという試みがなされたが、少数は移民として流出していった。この頃、行政機構はアムト・エーリヒスブルク=フンネスリュックに統合され、1859年にアムト・アインベックが創設された。

ハノーファー王国は1866年にプロイセン王国に併合された。20世紀初め、この街の人口は1,462人であった[8]


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