ダッカ
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Dhaka
位置
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯23度42分7.2秒 東経90度22分1秒 / 北緯23.702000度 東経90.36694度 / 23.702000; 90.36694
行政
国 バングラデシュ
管区ダッカ管区
県ダッカ県
市ダッカ
市長北:アティクル・イスラーム
南:シェイフ・ファズル・ヌール・タポシュ
地理
面積
市域145 km2 (56 mi2)
標高2 m
人口
人口(2011年現在)
市域8,906,035人
人口密度 61,421人/km2(159,036人/mi2)
その他
等時帯UTC+6 (UTC+6)
市外局番02
公式ウェブサイト : ⇒http://dhakacity.org/
ダッカ(ベンガル語: ???? [???aka] 英: Dhaka、旧名Dacca)は、バングラデシュの首都[1]でありダッカ県の首府を兼ねる。世界有数のメガシティであり、2016年の人口推計によると、近郊を含む都市圏人口はバングラデシュ最大の[2]1,623万人であり、世界第16位である[3]。
バングラデシュ中央部に位置し、ブリゴンガ排水路によってドレッショリ川に通じる同国の商業・工業・文化・教育の中心地であるダッカは、「モスクの街」としても知られる[4]。ジュート・綿加工や食品加工などの製造業が行われ、特にまた高品質なモスリン生産の地としても有名である。街中には約40万台と言われるリキシャが毎日行き交う事でも知られる[5]。
ダッカの歴史は9世紀以前に遡るが、ダッカが都市として繁栄したのはムガル帝国の統治下で17世紀にベンガル州の州都となったことによる。当時の名は「ジャハーンギールナガル」といった。1765年からイギリスの支配にあるイギリス領インド帝国に組み込まれ、19世紀にはコルカタに次ぐベンガル地方第二の都市にまで発展した。1947年にパキスタンとして独立後は東パキスタンの首都となった。1971年にバングラデシュとして独立以後も引き続き首都となり、現在に至る。ダッカのストリートマーケットの風景
現代のダッカは、バングラデシュの政治・文化・経済活動の中心地である[6]。 都市のインフラストラクチャーは国中で最も発達しているが、それでも急激な人口増加には追いつかず、公害や交通渋滞または公共サービスの不足などの問題に直面している。そのような中でも近年は交通機関や情報網および公共事業などで近代化が促進されている。ダッカは外資を呼び込んで商業や貿易の拡大を図っているが、これがまた人口の流入を促進する要因となり、結果的にダッカを世界一急激な人口増加都市にしている[7][8]。こうした負の要素は、早々に改善できるものではなく、2013年、世界各都市の医療、文化・環境、教育、インフラを数値化した「世界で最も住みやすい都市」のランキングでワースト2位になった(1位は内戦状態のダマスカス)[9]。
歴史ラールバーグ城(英語版)。17世紀中期にシャーイスタ・ハーンが建設した。
現在のダッカがある地域が市街地化された最初の時期は7世紀であり、8世紀には仏教国のカーマルーパ(英語版)王国、次いでパーラ朝の統治下にあった。そして9世紀からはヒンドゥーのセーナ朝がこの場所を治めた[10]。12世紀になり、女神ダケーシュワリー(英語版)を祀る寺院がバッラーラ・セーナ(英語版)によって建立されると、これにちなみ都市は「ダッカ」と呼ばれるようになった[11]。当時のダッカ周辺はベンガラ (Bengalla) と呼ばれ、市街には小規模な市(Lakshmi Bazar, Shankhari Bazar, Tanti Bazar, Patuatuli, Kumartuli, Bania Nagar, Goal Nagar)がいくつか立った。セーナ朝の後には、ダッカはデリー・スルターン朝が送り込んだテュルク人やパシュトゥーン人による為政が続いたが、勃興したムガル帝国が1608年に当地を支配した[12]。
ムガル帝国のベンガル州都となったダッカでは、都市の開発と人口増加が始まった[13][14][15]。行政担当を担当した初代知事イスラーム・ハーン(英語版)[16]は、皇帝ジャハーンギールにちなんでこの都市の名をジャハーンギールナガル(「ジャハーンギールの都」の意)と定めた。シャーイスタ・ハーン将軍の頃[14][15]、都市は19×13kmの市域に約100万人を抱えるまでに発展した[17]。アシャーン・マンズィル(英語版)。ダッカ・ナワーブ家(英語版)の邸宅だったが、現在は博物館として利用されている。
1765年、イギリス東インド会社は徴税権(ディーワーニー・ライト、Diwani right)を獲得し、1793年にはベンガルの貴族階級(ナワーブ、Nawab)はベンガルやビハールまたオリッサの州や都市に対する利権を放棄することを強いられ、イギリスはこれら地域を支配する行政権をも手中にした。この期間、コルカタの人口が増加した事と対照的に、この地区の都市からは市民の流出が続いた[18]が、実質的な発展は続き、近代化も行われた。現代的な都市給水網は1874年に導入され、電力供給も1878年に始められた[19][20]。