ダッカ日航機ハイジャック事件
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「日本航空472便事件」は1977年に発生したハイジャック事件について説明しているこの項目へ転送されています。1972年にボンベイで発生した日本航空472便によるオーバーラン事故については「日本航空ボンベイ空港誤認着陸事故」をご覧ください。

ダッカ日航機ハイジャック事件
事件機のJA8033(日の丸塗装。1969年、ホノルル国際空港において撮影)
場所 バングラデシュダッカジア国際空港
標的日本航空472便(ダグラス DC-8
日付1977年9月28日 - 10月3日
攻撃手段ハイジャック
攻撃側人数5人
武器拳銃手榴弾など
死亡者なし
負傷者数名
行方不明者なし
犯人日本赤軍
容疑丸岡修佐々木規夫坂東國男西川純和光晴生
動機日本赤軍メンバーおよびシンパの釈放、身代金獲得
対処身代金600万ドルの支払いおよび超法規的措置の施行による収監者の釈放
謝罪日本政府によるバングラデシュ政府への特使派遣
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ダッカ日航機ハイジャック事件(ダッカにっこうきハイジャックじけん)は、1977年9月28日に、日本赤軍が起こしたハイジャック事件である。ダッカ事件とも呼ばれる。
概要
ハイジャック発生

1977年9月28日に、フランスパリシャルル・ド・ゴール空港ギリシャアテネ国際空港エジプトカイロ国際空港パキスタンジンナー国際空港インドムンバイ国際空港タイドンムアン国際空港香港啓徳国際空港経由東京国際空港行きの日本航空472便(ダグラス DC-8-62、機体番号:JA8033、高橋重男機長以下乗員14名、乗客142名うち犯人グループ5名)が、経由地のムンバイを離陸直後、拳銃手榴弾などで武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。

同機はカルカッタ方面に一旦向かった後、進路を変更してバングラデシュの首都ダッカジア国際空港に強行着陸、犯人グループは人質身代金として600万ドル(当時の為替レート〈1USD≒約266円〉で約16億円)と、日本で服役および勾留中の9名(奥平純三城崎勉大道寺あや子浴田由紀子泉水博仁平映植垣康博、知念功、大村寿雄)の釈放と日本赤軍への参加を要求し、これが拒否された場合、または回答が無い場合は人質を順次殺害すると警告した。この時、犯人グループから「アメリカ人の人質を先に殺害する」という条件が付けられ、この影響を受けて、その後の日本政府の対応にアメリカへの外交的配慮があったとする見方もある。また、この便には当時のアメリカ合衆国大統領ジミー・カーターの友人であるアメリカ人銀行家が乗っており、犯人たちはそのことを事前に知っていた。

その後、ハイジャック機はジェット燃料の消費を抑えるため、エンジンを停止させたことで機内の気温が45度以上に上昇し、熱中症で倒れる者が続出した。しかし、たまたま乗り合わせた日本航空の嘱託医師の穂刈正臣が手当てを行ったほか、機長が空港関係者にエアコンを作動させるための補助動力車とを要求し、これが受け入れられたためにことなきを得た[1]

犯人達は人質からパスポートと時計、金銭や貴金属類を没収し、手荷物を降乗口に積み上げバリケードとした。窓のシールドは降ろさせられ、機内での要求は全て女性客にやらせた。
超法規的措置

日本政府はこれ以上の交渉や武力での解決を良しとせず、10月1日福田赳夫首相が「一人の生命は地球より重い」と述べて、身代金の支払いおよび「超法規的措置」として、収監メンバーなどの引き渡しを行うことを決めた。

なお釈放要求された9人のうち、植垣は「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」、知念は「一切の沖縄解放の闘いは沖縄を拠点に沖縄人自身が闘うべきものであり、日本赤軍とは政治的、思想的な一致点がない」、大村は「政治革命を目指す赤軍とはイデオロギーが異なる」と述べ、それぞれ釈放および日本赤軍への参加を拒否した。なお、日本政府は議論の過程で、釈放要求リストに載っていた獄中者組合2人(泉水と仁平)については「思想犯ではなく刑事犯」との理由から、釈放拒否の方針を持って交渉した。しかし、これにハイジャック犯側が応じなかったため、最終的に日本政府が折れ、2人も釈放となった。

この時の超法規的措置による釈放は法務大臣が刑務所・拘置所を所管する法務省矯正局長を直接指揮する形で行われた。

日本政府は同日朝に、運輸政務次官石井一を派遣団長とし、日本航空の朝田静夫社長ら同社の役員や運輸省幹部を中心としたハイジャック対策の政府特使と交代の客室乗務員、6tの食料、身代金と釈放に応じたメンバー6人などを日本航空特別機(ダグラスDC-8-62、機体番号:JA8031)でダッカへ輸送した[2]

日本政府が過激派による獄中メンバーの釈放要求に応じたのは、1975年クアラルンプール事件以来2回目となった。なお、検事総長神谷尚男法務大臣福田一は、法治国家における「法の番人」としての立場から、このような安易に法を無視した超法規的措置の施行に対して強硬に反発した。福田法相は施行が決定された後に引責辞任した。
軍事クーデター発生現在のジア国際空港

バングラデシュ軍中枢を含む政府首脳がこの事件の対応に追われている隙を突いて、10月2日の早朝に軍事クーデターが発生した[2]。クーデター部隊は、政府の要人の多くがこの事件に対応するため空港の管制塔に集まっていたことを利用しており、このクーデター軍はハイジャック犯が得た身代金600万ドルの強奪も企てていた。

その後戒厳令が発令され、市内および郊外における戦闘の末に最終的に2時間ほどで反乱軍は鎮圧されたものの、空港近辺でも戦闘があり、管制塔内も日本の政府関係者や報道各社の人員の目の前で銃撃戦が行われ、政府軍の士官11名が死亡したほか、事件解決の陣頭指揮を執っていた政府軍の司令官が負傷するなど現地は緊迫したが、当時は報道規制により詳細は分からなかった。

この時、銃声などの異変に気づいた犯人側からの「何が起きた?」という通信に対し、バングラデシュ側は「ちょっとした緊急事態だ。兵士が近づいたら撃っていい。自分の身は自分で守れ」と返答している。石井政務次官もクーデター軍に撃たれそうになったが、「日本人だ」と言うと相手は謝って引いたという。
終結

犯人側は当初から「日本政府とは交渉しない」と通達したため、交渉はバングラデシュ空軍のマムード司令官によって行われた。石井が到着した時には現地で人質の部分解放・残りは移送先で解放という内容で現場はまとまっていた。マムードはこの事件の解決を自分と国の威信を上げるために利用しようと考えていた。しかし、クーデターによってマムードが負傷したため、その後の通信・交渉は彼の部下が代わって行った。石井ら日本側が犯人と通信をすると、犯人グループは態度を硬化するということが何度も繰り返され、日本側は全く交渉の相手にされなかった。

10月2日に妊婦や病人など、数名の人質との交換が行われ、わずかな食料と水の差し入れを犯人側が受け入れた。犯人は自分たちが持ち込んだビスケットだけを口にし、水は人質に毒味をさせていた。その直後、エジプト人の乗客がコレラ感染の疑いがあることが判明し、その乗客と周囲にいた5名を解放し、機内や乗客をで消毒した。犯人側はパニックを恐れて人質たちにコレラという単語を口にすることを禁じたという。

その後、救援機がハイジャック機の止まっている滑走路の反対側に駐機。犯人側は飛行機を離陸体勢にしたが、マムードの部下らによって進路を車などで塞がれ動けない状態にされた。アメリカ人銀行家を殺すという通信のカウントダウン5秒前で石井は犯人の要求を全て呑む回答をした。この際、石井は独断で、救援機の中で最後の交換要員である奥平に自分たち日本代表と人質全員を交換するよう説得するように頼んだ。翌10月3日に高橋機長とデッドヘッドで乗り合わせていた澤田隆介機長の機転で、さらなる人質の解放に成功し[2]、ダッカでは乗客乗員118名が解放された。

クーデター終結直後、クーデター軍による身代金強奪を恐れたバングラデシュの大統領令により強制離陸命令が出され、乗務員と残りの人質を乗せたハイジャック機は救援機とともにダッカを発ち、日本外務省が受け入れの交渉・手配したアルジェリアへ向かうこととなった。

経由地のクウェートで人質7名を、シリアダマスカスで人質10名を解放、その後アルジェリアのダル・エル・ペイダ空港に着陸し、ここでハイジャック犯と釈放犯は同国当局に投降してその管理下に置かれ、最後の人質12名と乗員7名の全員が解放された[3]。日本赤軍がアルジェリアを選んだのは同国がハイジャック防止条約を結んでいなかったためである。また、当時のアルジェリアはソ連などの支援を受け、親東側諸国の立場をとっており、さらにアメリカの過激派ブラックパンサー党のメンバーの亡命を受け入れており、先進国左翼過激派組織やキューバとともにパレスチナ解放機構など第三世界の革命組織の最大の支援国のひとつであることも大きかった。
事件の影響

事件解決に多大な協力を受けた上に、11名の死者を出した軍事クーデターのきっかけを作ったことを受け、事件解決後に日本政府はバングラデシュに謝礼とお詫びの意味を含めて特派使節を送ることとなった。しかし、バングラデシュ政府は日本政府に対し補償などを求めなかった。このバングラデシュ政府の対応は大きな称賛を受けることとなった。

また、この事件における日本政府の「超法規的措置」は、テロに悩まされた多くの諸外国から「日本はテロまで輸出するのか」(当時、日本から諸外国への電化製品や自動車などの輸出が急増していた)などと批判されたとされるが、当時は諸外国においても、テロリストの要求を受け入れて、身柄拘束中の仲間を釈放することは珍しくなく(PFLP旅客機同時ハイジャック事件やハーグ事件、ルフトハンザ航空615便事件など)、日本のみがテロに対して弱腰であったというわけではない。なお、このようなテロリストの要求を受け入れる流れが変わるきっかけとなったのが、ダッカ事件と同年に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件である。西ドイツ政府は、ミュンヘンオリンピック事件を機に創設された警察特殊部隊「GSG-9」を航空機内に突入させ、犯人グループを制圧し、人質を救出した。

本事件の17日後に発生した長崎バスジャック事件では「阿蘇連合赤軍」を名乗る2人組が政治家との面会などを要求したが、一連の赤軍事件を模倣した身代金目的の犯行とされ、警察の強硬策により犯人1人が射殺、1人が逮捕され、人質16人は無事救出された。

1970年代の世界各国では、頻発していたハイジャックやテロ事件に対処するために特殊部隊の創設が進められつつある所だった。日本政府もGSG-9を参考として、本事件が発生した1977年にハイジャック事件等に対処する特殊部隊を警視庁大阪府警察に創設した。これらは当初「特科中隊」(警視庁第6機動隊特科中隊:略称ロッカチュウ)、「特殊検挙班」または「零中隊」(大阪府警第2機動隊)などと呼称され、存在自体が長期間非公表(所属隊員名も警察官の名簿から抹消されていた)とされていたが、1979年三菱銀行人質事件で大阪府警第2機動隊特殊検挙班が突入し、犯人梅川昭美を射殺[4]1995年に発生した全日空857便ハイジャック事件に出動し、犯人を逮捕、人質を救出したことで広く世間に知られるようになった。


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