ダチョウ倶楽部
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ダチョウ倶楽部
2015年4月4日、横浜スタジアムにて撮影。左から上島、寺門、肥後。
メンバー肥後克広
寺門ジモン
死去したメンバー
上島竜兵
元メンバー
南部寅太(元リーダー[1]) 
別名ダチョウ
結成年1985年
事務所太田プロダクション
活動時期1985年 -
師匠杉兵助(肥後)
出身道頓堀劇場(肥後)
テアトル・エコー養成所(寺門、上島)
出会い渡辺正行の紹介
旧グループ名キムチ倶楽部
現在の活動状況テレビ
芸種リアクション芸コントものまね
ネタ作成者肥後克広
現在の代表番組爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル
過去の代表番組天才てれびくん
スーパージョッキー
王道バラエティ つかみはOK!
志村けんのバカ殿様
同期ウッチャンナンチャン
中山秀征
出川哲朗
シルク
今田耕司
130R
リットン調査団
公式サイト公式プロフィール
ダチョウ倶楽部オフィシャルブログ
受賞歴
1987年 第15回日本放送演芸大賞 ホープ賞
1993年 第31回ゴールデン・アロー賞芸能賞
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ダチョウ倶楽部(ダチョウくらぶ)は、太田プロダクションに所属する肥後克広寺門ジモン上島竜兵からなる日本お笑いトリオカルテットで活動していた時期もある。計算し尽くされたリアクション芸や「ヤー!」「聞いてないよォ」などのギャグ、「ムッシュムラムラ」など同じ言葉を連呼するギャグ物真似などを持ち合わせ、しかも大半の芸は応用が利くのが特徴。特に上島は出川哲朗と並んで、リアクション芸人の代表格であった。

2022年5月11日、上島が死去したため、以後は肥後・寺門の2人で活動している。
メンバー[ソースを編集]詳細は「肥後克広」、「寺門ジモン」、「上島竜兵」、および「南部虎弾」を参照

肥後 克広 (ひご かつひろ、1963年3月15日 - )
ツッコミ(昔はボケ)・ネタ作り担当、2代目リーダー。

寺門 ジモン(てらかど じもん、1962年11月25日 - )
説教(ダメ出し)・ボケ担当。
死去したメンバー


上島 竜兵(うえしま りゅうへい、1961年1月20日 - 2022年5月11日
ボケ(昔はツッコミ)担当。61歳没[2]
元メンバー


南部 寅太(なんぶ とらた、1951年7月14日 - 2024年1月20日
ボケ担当、初代リーダー。脱退後に「南部虎弾」と名を改め、電撃ネットワークで活動した。2024年1月20日に死去。72歳没。
来歴[ソースを編集]

肥後は商業デザイナーから転身して、コメディアンの杉兵助に弟子入りし、渋谷道頓堀劇場にてお笑い芸人として活動しており、ジモンと上島は劇団テアトル・エコー附属養成所に所属する役者志望だった。彼らが知り合ったのはテアトル・エコーの先輩・渡辺正行の紹介である。

3人はコント赤信号の劇団員として活動後、多人数のコントグループ「キムチ倶楽部」として活動[3]。「?楽部」は当時流行っていたおニャン子クラブになぞらえたものである。キムチ倶楽部には20 - 30人のメンバーがおり俳優の近藤芳正なども在籍していた[4]。当時渡辺正行が立ち上げた第1回のラ・ママ新人コント大会に出場する事になっていたがすっかり忘れており、直前に連絡のついた現メンバー3人と南部寅太(現:南部虎弾)で参加する事になった。それが成功した事でそのメンバーでの活動が増え、改めて4人で「ダチョウ倶楽部」(諸事情により1985年にキムチ?楽部から改称)を結成した[5][6]。初代リーダーは南部だったが、1987年に彼が脱退して電撃ネットワークを結成したため3人編成となる[6]

南部脱退の理由について、しばらくは4人とも明確に語ろうとしなかったが徐々に明かすようになり、「南部が深夜上島に電話して『ビー玉飲めるか?』と尋ねたのに対して、出来ないと上島が拒んだところ、仲たがいになり南部が脱退した」と上島が語り、南部本人は「事前に根回しせず勝手に毒舌を吐くなど自分の独断行動に3人が付いていけなくなり、結果としてクビになった」と説明[7]。いわゆる芸風や方向性の違いによるものだった。

南部脱退後、事務所の指示で(戸籍上は)最年少ながら一番背の高い肥後がリーダーとなった(実際の最年少は寺門、詳細は肥後克広を参照)。フロントマン兼リーダーの南部脱退により、当時太田プロに在籍していた芸人の間では南部なしのダチョウ倶楽部の行く先が危ぶまれたという。その後ショーパブ、ライブなど経て、お笑い第三世代ブームでブレイクするが、ネタ番組では1本ネタはさせてもらえず、ショートコントばかりという扱いだった。しかし、「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」(以下、「お笑いウルトラクイズ」と略す)にて、後述するような独特な芸風(リアクション芸)を生かし、再ブレイクする。かつてのネタでは、上島がツッコミ役だったが、笑福亭笑瓶の助言により、ボケ役に回った。

1993年10月、初めてゴールデンタイムで『王道バラエティ つかみはOK!』のメイン司会を担当するが、視聴者から抗議が殺到し(特に上島のドリカム吉田美和のモノマネは大顰蹙を買った)、視聴率も苦戦したことから半年で終了。

1994年、『24時間テレビ』にて、チャリティーマラソンのランナーを3人で担当。

1995年、『ダチョーン倶楽部』内の上島企画「目指せ! ヒット曲」において、Club D名義でシングルCDを1枚リリースした。

2006年、CS放送テレ朝チャンネルにて『ダチョ・リブレ』が放送開始。「竜兵会」「ネイチャージモン」の2部構成。「竜兵上島のオチのない話」などオリジナル企画を放送。

2022年5月11日、メンバーの上島が死去、61歳没。上島の没後もダチョウ倶楽部は解散しないことを肥後が追悼文にて明言し、2人で活動継続することを発表した[8]

2024年1月20日、初代リーダーで元メンバーの南部虎弾が脳卒中のため都内の病院で急逝。
エピソード[ソースを編集]

メンバーが3人だった当時、テレビ番組等では「結成時のエピソード」を語る際、南部のことには余り触れなかった。これは南部のことを話したくないわけではなく、南部のことまで話すと尺(時間)が無くなってしまうからであった。南部が脱退した後もダチョウ倶楽部と電撃ネットワークは度々共演しており、2022年に上島が逝去した際にも、南部が追悼コメントを発表している。

志村けんと多数の共演ができるようになったきっかけは、志村の友人でプロレスラーの川田利明が上島を志村に紹介したことで、メンバー達は川田に非常に感謝している。

上島、寺門は兵庫県、肥後は沖縄県の出身だが、東京でデビューし、東京を活躍場所としているため、関東芸人として扱われることが多い。また、上島、寺門はプライベートでも関西弁を話さなかった。

第5回お笑い芸人歌がうまい王座決定戦スペシャル』(2006年7月25日放送)では、普段の芸風とは違う真剣な面を見せて優勝した。

各メンバー単独での活動も多いが、以前はピンの仕事でもギャラを三等分していた。

ものまね王座決定戦で肥後が堺正章の真似をした際(寺門と上島はサカイ引越センターのCMキャラの徳井優を寺門、華ゆりを上島が演じた)、ネタの一つであるテーブルクロス抜きを成功させたことがある。しかし後に「あれはストーリー上、派手に失敗して『失敗しましたかくし芸?の堺』と続く予定だったのに成功しちゃったから一瞬固まりました」とコメントした。実際、寺門が「成功しましたかくし芸?の堺」とアドリブで歌詞を変え、肥後もビックリした様子だった。同じくものまね王座でレオ三兄弟(肥後:森本レオ、寺門:ウルトラマンレオ、上島:ジャングル大帝レオ)が、同番組の物まねリクエストで1位を取ったことがある。

同じく、ものまね王座決定戦初出場時、彼等が少年隊の「君だけに」をウルトラ3兄弟のコスチュームで物まねした後、評価を訊かれた峰岸徹から「団長倶楽部」と言われた。通算優勝回数は2回(第20回爆笑!スターものまね王座決定戦スペシャル、第24回爆笑!スターものまね王座決定戦スペシャル)。

メンバーが3人だった当時は肥後と上島がよく飲みに行っていたが、寺門は酒が飲めずそう言った席を避けているだけで、決して相方2人と不仲というわけではなかった。寺門が竜兵会のメンバーでなかったのもこの為であった。実際ロケで地方へ行くと、3人で食事をしたり部屋飲みをする程仲は良かった。

桃色つるべ?お次の方どうぞ?』出演時[9]に、渡辺正行率いる「コント赤信号」の劇団員であった肥後が新人のコントイベントでのネタ作りの為、急遽電話して集まったのが上島・寺門・南部であった(先述の通り、南部は現在ダチョウ倶楽部には属していない)と結成のいきさつを語った。番組内で「ずっと長くこの世界にいられるコツって何ですか」と尋ねられた肥後は「師匠を前に言えない」と、番組MCの笑福亭鶴瓶に遠慮しつつ「渡辺正行さんに怒られたんで、『1回だけやろう』と言ったのが良かったのかもしれないですね。『3人で売れようぜ』とか『天下獲ったるぜ』みたいなのはなかったですから」と回答。野心のなさがいい意味でグループ存続につながったと推測していた[10]

主なギャグ[ソースを編集]

計算された3人のコンビネーションで見せる芸が多く、内容はウケる・ウケないではなく、マンネリの美学の伝統芸とされる。リアクション芸は、ノリだけで行っているように見える裏側に「リアクションの際はカメラを凝視する」「限界の状況でも常に安全を確認、かつ最低限のマージンを取って芸に臨む」など緻密に計算されている。「一見つまらないようなギャグでも3人で行うと迫力があって面白く感じる」とも語っている。『アメトーーク』出演時のリアクション芸人講座など自分たちの芸について語る機会があると、リアクションシーン直前にカメラに写りこまない部分で行う準備・リアクション中の様々なテクニック・流れるようなフォーメーションを随所に織り込んでいることを解説している。

ギャグトークの展開が読めることを逆手にとり、オチを始める直前にメンバー以外の他者から「例の“キス”だろ?」などとツッコまれ、ギャグ不成立で「笑い」を誘う事例も見られる。特に有吉弘行などが使用する。

2020年以降は新型コロナウイルス感染症拡大の影響により、「密」状態の回避が難しい熱湯風呂・キス芸・熱々おでん、など得意とするギャグは自粛している。後記のキス芸のように一部対策して継続する場合もある[11]

上島死去後、肥後・寺門の2名体制になったが、下記のギャグはそのまま引き継いだ。また、第三者を上島役にしてボケさせるパターンも生まれている。

「聞いてないよォ」(1993年流行語大賞大衆部門・銀賞)

グループの知名度を広めた「お笑いウルトラクイズ」で生まれたギャグである。収録開始の直前でも企画内容の詳細を知らされておらず、収録中の仕打ちが過酷であったことから、寺門が思わず口にした「聞いてないよォ」のひとことから生まれた。その後、同番組の企画が過激かつ過酷さを増すと、実際の受傷事故などを防ぐために番組の企画会議から参加した。定番化した頃には、あらかじめ知っていたのに3人が声を揃えて白々しく吐くギャグ、として認知された。「どうぞどうぞ」など他のギャグが広く知られると、テレビのバラエティ番組で披露する機会が減少したが、イベントやCMなどで披露した[12]

織田信長」(高橋英樹主演)への客演時にも、出演シーン(長篠の戦いに際し野戦築城の材を担いで行軍する場面)での台詞に反映されている。


「(上島)俺は絶対やらないぞ! (肥後)お前やらないの?じゃあ俺がやるよ! (寺門)いやここは俺がやるよ! (上島)……じゃあ俺がやるよ。 (肥後&寺門)どうぞどうぞ!」

熱いおでんを食べるなどの過酷な企画を誰がやるか決める時のギャグ。「ナイナイナ」(テレビ朝日)の企画で偶発的に生まれた。

逆さバンジージャンプなどのスタントを担当する者を決める際、ナインティナイン石塚英彦らとともにこのギャグを演じる。


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