ダコタ戦争
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ダコタ戦争
Dakota War of 1862
インディアン戦争

1862年8月19日のミネソタ州ニューアルムの包囲の想像図

1862年
場所ミネソタ州
結果アメリカ合衆国の勝利

衝突した勢力
アメリカ陸軍ダコタ・スー族 アメリカ民兵
被害者数
90名70名-100名450名以上

ダコタ戦争(ダコタせんそう、: Dakota War of 1862、他に Sioux Uprising、Sioux Outbreak of 1862、Dakota Conflict、U.S.-Dakota War of 1862、Little Crow's Warの呼び方がある)は、アメリカ合衆国ミネソタ州南西部のミネソタ川沿いで、1862年8月17日に始まった、アメリカ合衆国とダコタスー族インディアンとの間の紛争である。

「戦争」と名は付いているが、実情は飢餓状態となった少数民族の「暴動」であり、暴動のその結果は、米国処刑史に残る38名のダコタ族の一斉絞首刑と、ミネソタからのダコタ族の追放という、インディアンに対する合衆国の民族浄化となった。西部大平原におけるスー族との「インディアン戦争」の始まりになる。
背景

1851年7月23日8月5日に、ミネソタのダコタ・スー族はアメリカ合衆国の軍事圧力によって、「ミネソタ準州内にある彼らの伝統的な狩場9600km2を、166万5000ドルの一時金と引き換えに、これを合衆国へ譲渡し、ミネソタ川上流を挟み幅32km、長さ240kmの保留地に入る」という二つの条約、「トラバース・ド・スー条約」と「メンドータ条約」を結ばされた。完全狩猟民族であるスー族にとって狩場を失うことは死を意味するが、合衆国はその代償として、毎年彼らに「年金」(小麦粉などの食料)を配給すると約束した。貨幣経済にないスー族の社会では、166万5000ドルの一時金は何の意味も持たなかった。一時金はすぐに白人に巻き上げられていった。

しかし、アメリカ合衆国上院はその条約の批准過程でそれぞれ第3条を削除した。約束された年金の大半はまともに届かず、インディアン管理局の役人によってそのほとんどが盗まれていった。インディアンたちに支給されるはずの牛肉は白人役人によって横流しされ、鶏の屑肉しか支給されないこともあった。

条約締結後、合衆国は狩猟生活を捨て、白人のように農業を行うようダコタ族に勧め、農業を受け入れたものには煉瓦造りの家を「与えた」。しかしスー族は相変わらずティーピーでの野外生活を続け、煉瓦家屋は倉庫として使っていた。狩場を失ったスー族は次第に困窮するようになり、交易品に頼るようになった。

白人の商人たちは彼らの弱みに付け込み、スー族に掛けで食糧を売り、代金は合衆国に払わせた。またインディアン管理官の年金支払いの遅れや、農業を始めたインディアンに優先的に食料を渡すといった不公平が続き、ダコタ族にますます飢えが拡がっていた。ダコタ族のタオヤテ・ドゥタ(リトルクロウ)酋長

1858年5月11日にミネソタが州に昇格したとき、リトルクロウ達数人の酋長たちがワシントンD.C.に赴き、条約に基づく正常な年金の支払いを要求した。しかしジェームズ・ブキャナン大統領は逆に、ミネソタ川に沿った彼らの保留地の北半分を没収し、スー族がパイプを作る伝統的な採石場があるミネソタ州パイプストーンの採石権まで奪った。

合衆国はスー族に割譲させた土地を、白人入植者のために街区と小区画に区分した。これら小区画で、白人は森や草原を取り払い、ダコタ族が行っていた狩り、釣り、および野生米の採集といった生活が不可能となった。白人入植者達が行う狩りによって、バッファローアカシカ、オジロジカおよびクマのような野生動物が著しく減った。ダコタ族らスー族は動物を食用にしていただけでなく、その毛皮による白人交易業者との物々交換にも依存していたが、これらの営みはことごとく失われていった。

合衆国が南北戦争の渦中にあったために、条約で補償された年金の支払はやがて止まってしまった。合衆国はスー族に農業を強制したが、ミネソタ川渓谷の土地の大半は耕作に適しておらず、交易だけではもはやダコタ族の社会を支えられなかった。新参の白人入植者に土地を奪われ、年金(食糧)の支払いはなく、条約は破られ、さらに天候不順による穀物の不作に続く食糧不足と飢饉で、大切な種牛まで食いつぶすに至り、ダコタ族の間には大きな不満が高まっていった。

管理官と癒着した白人交易業者は、次第に年金を直接よこすようダコタ族に要求していた。1862年の中ごろ、白人業者達は信用貸しで物資をそれ以上供給することを拒否し、ダコタ族は彼らの管理官であるトマス・J・ガルブレイスに直接食料を渡すよう要求した。交渉はインディアン嫌いで有名な交易業者の代表、アンドリュー・ミリックの悪意によって行き詰まりとなった。

1862年8月4日、北部シセトン族とワーペトン族のダコタ族集団が保留地の北西部にあるBIA(インディアン管理局)の「北スー族管理局」と会合し、交渉してうまく食料を得た。しかし、同じダコタ族の南ムデワカントン族とワーペクテ族が1862年8月15日に食料供給を要求して「南スー族管理局」に出向くと、要求は拒絶された。インディアン管理官でミネソタ州上院議員のトマス・ガルブレイスは、これらの集団に金の支払い無しで食料を分配しないように仕向けていたのである。

ダコタ族、アメリカ合衆国政府および地元の交易業者の集まりで、ダコタ族の酋長たちは交易業者の代表であるアンドリュー・ミリックに、ダコタ族を援助してくれるよう求めた。これに対してミリックはこう答えてみせた。「やつらが飢えているんなら、草か自分の糞でも食わせておけばいいだろう。」

会合は怒号の中に紛糾し、交渉は決裂した。先の条約から11年、たまりにたまったスー族の不満はもはや爆発寸前だった。

1862年8月16日、ダコタ族に対する条約の年金支払金がセントポールに到着し、翌日リッジリー砦に移された。しかし、それは暴動を防ぐには遅すぎたのである。
暴動の顛末
発端

1862年8月17日の日曜日、4人のダコタ・スー族の男たちが狩りに出かけ、彼らの保留地への帰途についていた。狩の獲物は乏しく、彼らの白人に対する不満は積もり積もっていた。彼らはロビンソン・ジョーンズという白人入植者の農場のそばまでやって来た。白人の鶏小屋の巣には、卵が何個かあった。スー族の一人がこれをつまみ上げたところ、別の一人が、「それは白人のものだから、触らない方がいい」とたしなめた。たしなめられた男は怒り、卵を投げ、たしなめた男を臆病者だと罵った。罵られた方はこれに反発し、「俺は白人なんぞ怖くは無い、なんなら試しに白人を一人殺してやろう」と言って、ジョーンズと妻子とその隣人を殺した。

彼らが慌てて村に戻りこれを報告すると、ダコタ族の酋長たちは各バンドを招集し、善後策を協議した。インディアン部族社会は合議制民主主義に基づいており、すべての決めごとは合議によって決定される。この際、「会議のティーピー」の中で、「調停者」である酋長たちが連座し、「聖なるパイプ」で煙草を回し飲みして事を協議するのである。


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