ダカールラリー
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「パリ・ダカールラリー」はこの項目へ転送されています。本レースを題材としたMicrosoft Windows・PlayStation 2用ゲームソフトについては「パリ・ダカールラリー (ビデオゲーム)」をご覧ください。

ダカールラリー
Dakar Rally2021年大会
開始年1979
主催アモリ・スポル・オルガニザシオン (A.S.O)
公式サイト
公式ウェブサイト
旧称: パリ・ダカール・ラリー
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ダカール・ラリー(Dakar Rally)は、フランス人の冒険家、ティエリー・サビーヌの発案により1978年から例年1月に開催されているラリーレイド競技大会。ツール・ド・フランスの運営としても知られるアモリ・スポル・オルガニザシオン (A.S.O.) が主催する。「世界一過酷なモータースポーツ競技」とも言われている[1]

元々はフランスの首都パリをスタートし、セネガルの首都ダカールでゴールするという形で主にアフリカ大陸で競技が行われ、パリ・ダカール・ラリー(Paris-Dakar Rally、日本での略称「パリダカ」)の名称が使用されていた。1992年にゴール地点がダカールではなく、南アフリカルカップとなって以降、スタート地点とゴール地点が毎年のように変更になり、そのたびに名称も変化した。2009年からは南米大陸に開催地を移したが、「ダカール・ラリー」の名称を維持して継続され、さらに2020年からは中東サウジアラビアでの1国単独開催に移行して現在に至る。

歴史的にルールの多くはFIA(国際自動車連盟)やFIM(国際モーターサイクリズム連盟)のそれに準じてはいるが、一部異なるルールを採用したり、新規定を先取りしたりするなど、独自の動きをするために、ほとんどの年で国際大会のカレンダーからは外れていた。2022年以降は新設されたFIA・FIM共同主催の世界ラリーレイド選手権(W2RC)の開幕戦としてカレンダー入りを果たした。

大会の公式語はフランス語であり、フランス語では一般に「ラリー・ダカール(Rallye Dakar[注釈 1])」と呼び、さらに短縮して「ル・ダカール(Le Dakar)」と呼ぶこともある。日本語では英語風の語順で「ダカール・ラリー」と呼ぶことが多い。
概要2022年の表彰式2011年の優勝トロフィー。(カミオンクラス)赤色は、以前 パリ・ダカール・ラリーで通過した国々(オレンジ色は1992年のパリ?ケープタウンでのみ通過)

1979年に始まり、毎年開催されているラリーレイド大会であり、1981年より国際自動車連盟 (FIA) と国際モーターサイクリズム連盟 (FIM) の公認イベントとなっている[2]世界三大レースモナコグランプリインディ500ル・マン24時間レース)に比べれば開催回数は少ないが、それらに同じレベルの規模・知名度を誇っており、モータースポーツおよびラリーレイドを代表するイベントのひとつとなっている。

プロのレーシングドライバー・プロライダーだけでなく、アマチュアドライバー・アマチュアライダーも参戦可能。

開催は1月上旬で、前年の12月末に始まることもある。以前は1月1日が一般的だった。そこから2週間かけて、競技区間と移動区間併せて1万キロ前後を走破する。

最初はフランスの首都、パリをスタートし、スペインバルセロナからアフリカ大陸に渡り、セネガルの首都、ダカールをゴールとするおよそ1万2000キロメートルを走った。1995年にスタート地点がスペイン南部のグラナダに変更になった。2009年からは南米アルゼンチンの首都、ブエノスアイレスからチリを回る周回コースに、2012年からはペルーを加えた3カ国を通るルートとなった。また2019年はペルー、さらに2020年からは中東サウジアラビアでの、それぞれ1カ国のみの開催となっている。

かつてのヨーロッパ-アフリカ大陸時代は、途中ほとんど集落や救護施設のないサハラ砂漠を縦断する過酷な競技なため、出場者の5割以上がリタイアする大会も珍しくなく、年によっては死者が複数人発生していた。リエゾン区間での地元住民とサポート車両の衝突事故や、スペシャルステージで観戦していた観客との接触による死者も多く、上記のうち競技者以外の死亡者が半数以上を占めていた。かつての競技区間には、西サハラなど政治的に不安定な国が入っており、地雷や銃撃による死者があったことも「世界一過酷」と呼ばれる由縁であった。

それ故、「全ての完走者が勝者である」という言葉が出場者全員の共通の認識となっており、最終日のレースは「ビクトリーラン」と呼ばれていた。

同様にヨーロッパ-アフリカ大陸時代は、フランスなど欧米を中心とした選手とメーカーが、かつて植民地として支配していたアフリカ諸国で行っているだけに、植民地主義的だとする批判が根強く存在し、テロリストや強盗集団の標的にされる理由の一つであった。またアフリカの一般住民の住む地域を競技車両が猛スピードで駆け抜け住民と競技車の事故も発生しており、批判されるのもやむを得ないとする見方も多かった。それらの事情から、後に開催地が南米に変更となった。しかし、その南米も治安・経済・天候などの問題から開催国が減少し、2020年にはサウジアラビアへと移った。

冠スポンサーは2007年はポルトガルでロト(日本でいえば宝くじ)を販売するユーロミルホーが務めた。過去にはテレフンケン(de:telefunken:ドイツの電機メーカー)、トタル(フランスの石油メーカー)、テレフォニカ(スペインの通信会社)などが務めている。日本企業では、大手音響機器メーカーのパイオニアが1988年 - 1991年に冠スポンサーを務めた。舞台が南米大陸になってからの2009年はトタル、2010年と2011年はpersonal社が冠スポンサーを務めた。
歴史ティエリー・サビーヌ。(アルジェの港にて)

1978年12月26日から1979年1月14日に第1回大会が開催、この時の名称は「オアシス・ラリー」となっていた。

本ラリーの創始者はフランス人冒険家、ティエリー・サビーヌ (Thierry Sabine) である[1]。下記の言葉は第1回開催の時に彼が言ったとされ、ダカール・ラリー創設の精神を語る言葉として有名である。.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

フランス語: Je vous emmene aux portes de l'Aventure... mais c'est a vous de defier le sort.[3]

英語: I will take you to the gateway of adventure, but you alone can challenge fate.[3]

日本語: 私が冒険の扉を示す。開くのは君だ。望むなら連れて行こう。[4]

1981年の第3回からFIA/FIMの公認競技となった。

サビーヌは運営団体としてTSO(ティエリー・サビーヌ・オーガニゼーション)を設立、主催者としてパリ・ダカを象徴する存在となる。しかしサビーヌは、大会期間中の1986年1月14日に起きたヘリコプターの墜落事故で死去[5][2]、彼の遺志とTSOは父ジルベールによって引き継がれた。だが、そのジルベールもティエリー程のカリスマ性を持つには至らず、高齢を理由に1994年1月に引退。TSOは主催者権を売却し、1994年からはフランスのアモリー・グループである「ASO」(アモリ・スポル・オルガニザシオン)が主催している。


1985年大会では三菱・パジェロが、4輪部門で日本車初の総合優勝[6]。出場者も非常にバラエティに富んだものとなりモナコ王国アルベール2世とその姉のカロリーヌ[7]、日本からは俳優の夏木陽介らが出場した[8]


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