ダイニチ映配
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出典検索?: "ダイニチ映配" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2019年10月)

ダイニチ映配株式会社(だいにちえいはい、: Dainichi Film Distribution Co., Ltd)は、1970年から1971年にかけて存在した日本の映画配給会社である。主に日活大映製作の映画を配給した。
沿革
成立までの経緯と当時の映画業界「日本映画#1960年代」、「大映#1960年代」、および「日活#斜陽時代」を参照

ダイニチ映配を配給ルートとして使用した日活と大映は、1960年代からの日本の映画産業全体の斜陽化のあおりをまともに受けた映画会社だった。

戦後、娯楽として隆盛を見せた日本の映画産業に、陰りが見え隠れするようになったのは、1953年より登場したテレビの急速な普及が大きい。

1958年の11億人をピークに観客動員数が減少の一途をたどり、1963年には半分以下の5億人強にまで落ち込んだ。また制作本数も1960年の547本から下降の一途をたどっていた。1964年には全国の映画館数が5000館を割る。

日活では石原裕次郎小林旭を中心としたアクション路線のマンネリ化、それに代わる吉永小百合和泉雅子浜田光夫高橋英樹などの青春路線も全盛期は数年で退潮を食い止めることはできなかった。また社長・堀久作のワンマン体質[注釈 1]から来る放漫経営もあり、1963年石原プロモーションを設立していた石原裕次郎が1969年に『風林火山』を皮切りに他社の映画にも出演するようになるなど、1960年代末には所属俳優の流出と、経営不安が表面化する。1969年には撮影所を、翌1970年には日比谷の本社ビルをも明け渡すことになった。

同様に、大映でも、1966年、3本が立て続けに公開された特撮映画『大魔神』シリーズがヒット。前年1965年からスタートしていた『ガメラ』シリーズも堅調な興行実績を上げて、末期の大映を支える数少ない柱のひとつとなったり、テレビへの対応においても、テレビ室(現・大映テレビの前身)制作の『ザ・ガードマン』は1965年から1971年まで放映される長寿番組となり、その後の大映テレビの基盤を作り上げる実績を上げるプラス面はあったが、その一方で、1967年には映画事業の赤字に起因する大映の巨額負債と経営難が表面化。もともと直営館が少ない脆弱な体質に加え、人気スターの離脱は止まらなくなった。1960年代前半の山本富士子の解雇、長谷川一夫の引退に続き、1967年には勝新太郎の独立、翌1968年には田宮二郎を解雇。最後の頼みであった市川雷蔵1968年直腸癌を発症、義父であった社長・永田雅一のために病をおして映画出演を続けるが、甲斐なく翌1969年7月に死去、大映は看板スターを失う。雷蔵の穴埋めとして同月、東映から松方弘樹がレンタル移籍。雷蔵の当たり役だった『眠狂四郎』、『若親分』のリメイク作品などが製作されるが、打開策とはならなかった。

テレビ業界の興隆に押される形で映画産業全体の斜陽化は復しがたい情勢の中、看板スターを相次ぎ失った上、新人スターや若手スタッフの育成もままならない状態に陥った大映・日活両者は、配給網を統合、ダイニチ映配を設立することとなる[1]



ダイニチ映配時代「大映#1970年代」を参照

1970年6月、ダイニチ映配が誕生。大映専務の松山英夫が社長、日活常務の壺田重三が副社長にそれぞれ兼任で就任する。

両者の配給網は統合され、その地ごとで大映系と日活系のどちらか一方に封切館が集約された。あぶれた片方は旧作やピンク映画の上映で食いつなぐケースが見られた[注釈 2][注釈 3]

発足後の第1弾は、大映(大映東京)が製作した『太陽は見た』と、日活が製作した『盛り場流し唄 新宿の女』による2本立。これ以降は一部を除き、大映と日活が新作を1本ずつ持ち寄り、それらを抱き合わせる形で公開する2本立を、興行の基本とした[注釈 4]。会社発足の当初に、新聞広告で掲げたキャッチコピーは、文字通り「大映・日活の封切作品が一度に見られるダイニチ!」であった[注釈 5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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