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出典検索?: "永井豪" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2014年9月)

ながい ごう永井 豪

本名永井 潔
生誕 (1945-09-06) 1945年9月6日(78歳)
日本石川県鳳至郡輪島町(現:輪島市
国籍 日本
職業漫画家
称号芸術文化勲章
活動期間1967年 -
ジャンル少年漫画
代表作『ハレンチ学園
あばしり一家
デビルマン
マジンガーZ
ドロロンえん魔くん
キューティーハニー
バイオレンスジャック
受賞第4回講談社漫画賞少年部門(『凄ノ王』)
第25回日本映画批評家大賞アニメ部門ダイヤモンド大賞
第47回日本漫画家協会賞文部科学大臣賞(全作品)
芸術文化勲章「シュヴァリエ」
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永井 豪(ながい ごう、本名:永井 潔(ながい きよし)、1945年9月6日 - )は、日本漫画家石川県輪島市出身。血液型はO型[1]

石ノ森章太郎アシスタントを経て、1967年目明しポリ吉』でデビュー。代表作に『ハレンチ学園』『あばしり一家』『デビルマン』『マジンガーZ』『キューティーハニー』など。少年漫画の世界に性やバイオレンスの表現を大胆に取り入れ、後続の漫画家に大きな影響を与えた。ナンセンスなギャグマンガからシリアスな劇画までシームレスにこなすという点でも異色の存在である。また1972年の『デビルマン』以降、多数のテレビアニメ作品に共同企画者・原作者として関わっている。1980年、『凄ノ王』により第4回講談社漫画賞を受賞した。1987年

1996年より1999年まで日本SF作家クラブ会長、2005年より大阪芸術大学キャラクター造形学科教授を務める。また、2009年より手塚治虫文化賞選考委員を務める。2023年4月時点で、日本漫画家協会理事。

現存する四大週刊少年誌(週刊少年ジャンプ週刊少年マガジン週刊少年サンデー週刊少年チャンピオン)及び、休刊した週刊少年誌4誌(週刊ぼくらマガジン週刊少年キング週刊少年宝島週刊少年アクション)全てに連載経験を持つ唯一の漫画家でもある。
経歴
デビュー

石川県鳳至郡輪島町(現在の輪島市)に生まれ、1952年から東京都豊島区に住む。豊島区立大塚台小学校(現 豊島区立朋有小学校)から西巣鴨中学校を経て東京都立板橋高等学校卒業。幼少期に手塚治虫の『ロストワールド』を読んだことをきっかけに漫画家を志すようになる。

高校卒業後、早稲田ゼミ(予備校)に通っていたが、3週間止まらない下痢に悩まされて大腸癌と思い込み、自分がこの世に生きていた証として漫画作品を残そうと決意[1][2]。のち大腸カタルに過ぎなかったことが判明して難なく完治したが、このときの決意をきっかけとして当初予定していた大学進学を断念した上で3か月の浪人生活に終止符を打つ。その後1年半出版社へ原稿の持ち込みをするが掲載にいたらず、編集者から漫画家の先生に見てもらうよう勧められる。手塚プロダクションに赴くも手塚に会えず落胆していたが、石森章太郎(後に「石ノ森章太郎」)に原稿を見てもらうチャンスに恵まれ、すぐに石森の下で働くことになる[3]。石森が持っていたSFテイストやキャラクターメイキングの方法論は非常に永井に近いものだったようで、石森も自分が世に出た時期が早いだけで「同じ感性の中でものを探している」[4]と彼を評している。この時期の石森アシスタントには野口竜桜多吾作がいた。

永井自身はストーリー漫画、特にSF志望だったが[5]、石森のアシスタントが多忙を極めストーリー漫画を描いている時間がなく[6]、デビューの早道として比較的ページ数の少ないギャグ作品に挑み、アシスタント業の傍ら持ち込みを続けていた。1967年、テレビアニメ『ちびっこ怪獣ヤダモン』(ピープロ)漫画化企画を担当する事となり、この腕慣らしとしてギャグ短編「目明しポリ吉」を『ぼくら』にてデビュー、続いて『?ヤダモン』の連載とともにギャグ漫画をコンスタントに描く。

この頃、『週刊少年マガジン』の依頼で執筆した『じん太郎三度笠』が、5週連載となり高い人気を獲得するが、これに赤塚不二夫が反発して編集長に抗議した結果、内定していた正式連載の企画が没となってしまう[7]。さらに赤塚は永井を呼び出し、「ギャグの主人公は凄く健全でなきゃいけないのに、何で人殺すのやるんだ」と言って怒ったという[7]。しかし、この経験から「赤塚先生が描かないようなものを突き詰めて描けばよい」と、永井はスラップスティック、エロ・グロ・ナンセンスを多分に織り込んだギャグ・コメディ作品を描き続けることを決意する。その後、デビュー間もない永井の才能を早くから高く評価していた秋田書店の名物編集者で当時『冒険王』の編集長であった壁村耐三は永井に働きかけ、『まんが王』にて初のオリジナル連載である『馬子っこきん太』を掲載する。


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