ダイエー_(店舗ブランド)
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ダイエー(: daiei)は、株式会社ダイエーが展開する総合スーパー(略称:GMS)とスーパー・スーパーマーケット(略称:SSM)。2024年(令和6年)3月時点で「ダイエー」の屋号[注 1]で運営する店舗は90店舗ある。

本項では実店舗に付随して展開しているネットスーパーについても記述する。
歴史
創業

1957年9月23日、ダイエー創業者の中内?大阪市千林駅前商店街に「主婦の店ダイエー」として1号店を開店した(後の千林駅前店)。また、1958年にはチェーン展開としての1号店となる三宮店(神戸市三宮)をオープンさせた。「ダイエー」の由来は、元々生家の家業であった「サカエ薬局」からきていると言われている。
流通革命 GMS・SCの導入

食品・衣料品・家具・家電と一店で何でも買うことが出来る業態のゼネラルマーチャンダイズストア(GMS)の先駆者でもあり、日本全国に浸透させた。チェーン1号店(三宮店)の売れ行きの高さと品数豊富で安い事などから、少数規模であった当時からダイエーの出店を反対する動きが各地で起こった。

更にアメリカ合衆国で当時、大量に導入が進められていたショッピングセンターを日本にも展開させようと、庄内店(現:グルメシティ庄内店)を専門店棟と銀行が備わったGMS棟の2つの建物を建設しSC方式の実験を行った。この実験結果を踏まえて誕生したのが、日本での郊外SC第1号となった香里店である(現在は閉鎖され、建物も現存せず)。GMSに専門店街を組み込み、地元商店と連携を図った地域密着型の商業施設のSC名称を「ショッパーズプラザ」とした。この後、他社でも同様のSCの建設が始まりダイエーは日本でSCの有り方を確立させたとも言える。
他地域への出店と価格競争

その後は、九州・関東・東北・北海道と出店。出店した際、やはり地場スーパーとの対立も激しく、中でも東京・赤羽に進出した際、西友ストアー(当時、東日本1位の売上げ)と起こした赤羽戦争では非常に大きなスケールの価格競争を繰り広げた。

一見、大手スーパーが故に地場スーパーとの連携が取れていない用に思われるが、採算が悪く経営が悪化していた地場スーパーともフランチャイズ契約を結んで商品供給や店舗の指導、ダイエーの看板を掲げ営業する等、積極的に支援していた。大手スーパーが地場スーパーと提携する際は資本提携することが殆どだが、ダイエーはフランチャイズ制度を持っていたため、業務提携のみで大手スーパーと提携できることに魅力を感じて契約していた地場スーパーも存在した(ニシザワなど)。
王国の崩壊と阪神淡路大震災

1980年代には、売上高が百貨店を抜き、スーパー業界で初めて1兆円を達成し、長年スーパー業界でトップを走り続けてきたダイエーであったが、80年代後半から滑落の一途を辿ることとなる。

ダイエーは、バブル景気の「土地神話」を過信するあまり、出店地における地域の付加価値増や発展効果等により、店舗の土地を周辺ごと大きく値上がりさせることを狙うとともに、その土地を担保に銀行から資金を借り入れ、その資金でまた新たな土地を買い店舗を拡大する、というスパイラル的な経営手法をとっていた。この為、バブル崩壊により大打撃を被ることとなった。

更に、バブル崩壊を境に社会の風潮が大量消費・物質文化中心から少量消費・精神文化中心に移行。消費者思想も安さや物量重視から個別の品質重視へと変化したことにより、「ダイエーには何でも揃っているが欲しいものがない」と揶揄されるにまで至った。そしてグループで運営していた事業が多数の赤字を生み、それまでは利を生んできたグループ全体の経営の悪化が始まる。

1990年代に入ると、東京都を基盤とする忠実屋と九州を基盤とするユニードダイエー(旧:ユニード)、沖縄法人となっていたダイナハと合併し、北海道から沖縄まで、直営店だけで400店に迫ったが、当時の中内のやり方でもある「作った以上はよほどのことがない限り手放さない」という執着心が災いし、流通各社が一般的に行っていた「店舗のスクラップ・アンド・ビルド」には消極的であった。その結果、不採算店舗が多数存在し、それらも足を引っ張った。

そして追い討ちを掛けるように、ダイエーゆかりの地、神戸市が1995年に阪神・淡路大震災で被災。震災発生直後、この事を知った中内は、自宅が存在した大田区田園調布から日本国政府よりも先に、フェリーやヘリコプターを投入し、直ちに食料品や生活用品を送るよう陣頭指揮し、中内も3日後には被災地入りし指揮を取った。

この頃、物価の便乗値上げが多く見られた被災地だったが、ダイエーは「よい品をどんどん安く」の精神で通常価格で販売した。この尽力により、物価の安定に貢献したダイエーは、被災地で好印象を受けた。この災害で中内が行った教訓は、中内が失脚し、丸紅傘下に入った際に発生した東日本大震災にも生かされ、東北地方の最後の砦となっているダイエー仙台店は唯一、被災して数日で営業再開させた。

そのような尽力もあったが、阪神淡路大震災に伴う、関西発祥のダイエーの金銭的被害は甚大だった。ダイエー村とまで言われた三宮6店舗のうち、4店舗(リビング館(神戸1号店)・オフプライス館(旧女館)・男館・電器館)や、神戸市内の店舗が建物倒壊等による閉鎖に追い込まれ、大阪の数店舗も打撃を受けた。巨額の閉鎖損をまかなうべく、業績が振るわなかった他地域の店舗でも閉鎖に追い込まれたところもある。

その後は、業界2番手・3番手だったイトーヨーカ堂ジャスコ(現:イオン)が躍進。ディスカウントストア等、別の業態も運営していたダイエーだったが、主力はGMS一筋で新業態や店舗開発に後手を踏み、店舗の老朽化も相まって赤字店舗が多数発生し、多くの店舗を閉鎖する。

創業者の中内は責任を問われることになり、全ての職を辞任。流通革命の一時代が終わったことになった。


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