ダイアナ・ミットフォード
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ダイアナ・ミットフォード
ダイアナ・ミットフォード
生誕ダイアナ・フリーマン=ミットフォード
(1910-06-17) 1910年6月17日
ロンドンウェストミンスターベルグレーヴィア
死没2003年8月11日(2003-08-11)(93歳)
フランスパリ
市民権イギリス
職業作家、批評家
著名な実績

ミットフォード姉妹のひとり
著名なファシストイギリスファシスト連合のリーダーだったオズワルド・モズリーの妻、アドルフ・ヒトラーの友人
文芸批評家・作家
肩書きジ・オナラブル・レディ・モズリー
配偶者第2代モイン男爵ブライアン・ギネス (1929?1932)サー・オズワルド・モズリー (1936?1980)
子供ジョナサン・ギネスデズモンド・ギネスアレクサンダー・モズリーマックス・モズリー
第2代リーズデイル男爵デイヴィッド・フリーマン=ミットフォードシドニー・ボウルズ
親戚ミットフォード姉妹を参照
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ダイアナ・フリーマン=ミットフォード、通称ダイアナ・ミットフォード(英語: Diana Mitford、1910年6月17日生 – 2003年8月11日没)は有名なミットフォード姉妹のひとりである。

最初はモイン男爵位の後継者であったブライアン・ウォルター・ギネスと結婚し、後に離婚して第6代イギリスファシスト連合党首だったモズリー準男爵サー・オズワルド・モズリーと結婚した。1936年にミットフォードがモズリーと再婚した際の結婚式アドルフ・ヒトラーを来賓に迎えてヨーゼフ・ゲッベルスの家で行われた。結果的に、ダイアナはファシズムの大義にかかわる政治活動ゆえ、第二次世界大戦中に3年間拘留された。のちにダイアナはパリに移住し、作家としてある程度成功した。1950年代には『タトラー』に日記を寄稿し、『ザ・ヨーロピアン』誌の編集にも携わった[1]。1977年には自伝A Life of Contrastsを刊行した[2]。『ブックス&ブックメン』に定期的に書評を書き、1990年代には『イヴニング・スタンダード』にも寄稿した[3]。1989年にDesert Island Discsに登場した時は物議をかもした[4]。家族の友人だったジェイムズ・リーズ=ミルンはダイアナに美貌について「私が会った中では、サンドロ・ボッティチェッリヴィーナスに最も近い人だった[5][6]」と述べている。
生い立ちアストホール・マナーの裏側

ダイアナ・ミットフォードは第2代リーズデイル男爵デイヴィッド・フリーマン=ミットフォード(1878?1958、初代リーズデイル男爵アルジャーノン・フリーマン=ミットフォードの息子)とその妻シドニー(1880?1963、庶民院 議員トマス・ギブソン・ボウルズの娘)の第4子で、3人目の娘だった。クレメンタイン・チャーチルいとこで、アンガス・オギルヴィのはとこであり、バートランド・ラッセルのいとこの孫にあたる。ダイアナはベルグレーヴィアで生まれ、最初はバッツフォード・パークにある田舎の地所で育てられた。10歳になってからはオクスフォードシャーにあるアストホール・マナーの一族の屋敷、それから父がスウィンブルックの村に建てたスウィンブルック・ハウスで育った。1926年にパリに送られてそこで学校で6ヶ月通ったが、それ以外は数人の女性家庭教師から自宅で教育を受けた。子ども時代に妹のジェシカ(通称「デッカ」)と、デボラ(通称「デボ」)はダイアナととくに親しかった。

18歳の時、宮廷にお目見えしたすぐ後、こっそりブライアン・ギネスと婚約した。アイルランドの貴族であったギネスは作家でビール醸造のギネス社相続人であり、モイン男爵位を継承することになっていた。ダイアナの両親は最初この婚約に反対したが、そのうちに説得を受けて了承するようになった。母シドニーは、このような若い2人が莫大な財産を抱えることになるのを非常に心配したが、結局ブライアンはふさわしい夫だと思うようになった。2人は1929年1月30日に結婚した。夫妻には1年に2万ポンド(インフレーション補正をして2016年の1123535.70ポンドに相当)の収入があった[7]。さらにウィルトシャーのビッズデンに地所があり、ロンドンダブリンにも家を保有していた。夫妻は「ブライト・ヤング・ピープル」として知られる上流階級の若者たちが集う貴族的な社交イベントの主催で知られるようになった。作家のイーヴリン・ウォーは、ダイアナの美貌を「鐘の響きのように部屋を走り抜ける」と褒め、狂騒の20年代を諷刺した小説『卑しい肉体』(Vile Bodies)を夫妻に献呈した。ダイアナの肖像画をオーガスタス・ジョン、パヴェル・チェリコフ、ヘンリー・ラムなどの画家が描いている[8]。夫妻の間には1930年にジョナサン、1931年にデズモンドという2人の息子が生まれた。 ダイアナの2人目の夫、オズワルド・モズリー

1932年2月、ダイアナは社交界の花形エメラルド・キュナードの家で開かれた園遊会でサー・オズワルド・モズリーと出会った。 モズリーはすぐに新しくできたイギリスファシスト連合の党首になり、ダイアナと恋に落ちた。その時モズリーは前インド総督ジョージ・カーゾンと、その最初の妻でアメリカの商人の女相続人だったメアリ・ヴィクトリア・ライターの間の娘レディ・シンシア・カーゾンと結婚していた。ダイアナは使用人を連れて夫のもとを去り、モズリーの家に近くに引っ越した[9]。しかしながらモズリーは妻と別れるつもりがなかった。1933年にシンシアが腹膜炎で急死した。モズリーは妻の死にひどいショックを受けたが、その後に妻の妹レディ・アレクサンドラ・メトカーフと付き合うようになった[10]

モズリーのためにギネスと別れるという決断を両親が認めなかったため、ダイアナは短期間家族と疎遠になった。ダイアナの不倫とその後のモズリーとの結婚により、姉妹間の関係が悪化した。最初、ジェシカとデボラはダイアナがモズリーとロンドンで「罪深い暮らし」をしているため会うことを禁じられていた。デボラは結局モズリーと知り合いになることができ、非常に親しみを抱くようになった。ジェシカはモズリーの信念を軽蔑し、1930年代末からはずっとダイアナと疎遠だった。パメラ(通称「パム」)と夫のデレク・ジャクソンはモズリーとうまくやっていた。ナンシーはモズリーを全く好まず、ジェシカ同様その政治的信念を軽蔑していたが、ダイアナとうまくやっていくためにモズリーを我慢するようになった。ナンシーは小説Wigs on the Greenを書き、モズリーとその信念をからかった。


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