ターリク・ミハイル・アズィーズ
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イラク政治家ターリク・アズィーズ???? ????

生年月日 (1936-04-28) 1936年4月28日
出生地 イラクニーナワー県タルカイフ
没年月日 (2015-06-05) 2015年6月5日(79歳没)
死没地 イラクジーカール県ナーシリーヤ
出身校バグダード大学
所属政党バアス党
イラク共和国革命指導評議会
第5代副首相
在任期間1979年7月16日 - 2003年4月9日
イラク共和国外務大臣
在任期間1983年 - 1991年
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ターリク・アズィーズ(アラビア語: ???? ????, ラテン文字転写: T?riq Az?z、シリア語: ??? ????‎、1936年4月28日 - 2015年6月5日)は、イラクの元政治家。副首相、外相を歴任。元ジャーナリスト日本語の報道では、「アジズ元副首相」とされることが多い。本名は、ミハイル・ユハンナ(Mikhail Yuhanna)。

イラクの閣僚には珍しくアッシリア人カルデア教会の信徒で、イラク戦争開戦前にはローマ教皇との会談などを通じて戦争阻止を国際世論に訴えるなど旧政権のスポークスマン役を務めた。
目次

1 生い立ち

2 ジャーナリスト

3 スポークスマン

4 イラク戦争?政権崩壊

5 身柄拘束

6 獄中での生活

7 裁判

8 脚注

9 外部リンク

生い立ち

1936年、イラク北部ニーナワー県にあるアッシリア人の町タルカイフに生まれる。父はウェイターであった。その後一家でバグダードに移住。

バグダード大学で英語とファインアートを学び、英文学修士号を取得している。学生時代に汎アラブ主義に共鳴、イギリスの影響下にあるハーシム朝打倒を訴える活動に参加していた。1957年にバアス党運動に参加、そこでサッダーム・フセインと出会う。1960年に正式にバアス党に入党する。
ジャーナリスト

大学卒業後はジャーナリストを志し、1963年に新聞「ジャマーヒール」(al Jamahir)紙の編集局長に就任した。1964年、アブドゥッサラーム・アーリフ政権下でバアス党に対する弾圧が始まると、1966年まで隣国シリア亡命し、一端離党。帰国後、復党するとバアス党の機関紙「アッ=サウラ」紙の記者兼編集長になり、当時、革命指導評議会副議長だったサッダームの政策を支持する社説を書き続けた。また、自身の次男に「サッダーム」と名前を付けている(2003年12月、自筆の手紙で次男に、ズハイルと改名するように伝えた)。

この時期、「ミハイル・ユハンナ」からアラブ風の「ターリク・アズィーズ」に改名している。1974年には党地域指導部メンバー、1976年5月10日に情報大臣として閣内入りし、1977年1月23日にまで大臣職を務めた後、同年には革命指導評議会メンバーになる。
スポークスマン 1984年11月26日、レーガンと会談するアズィーズ 1983年12月20日、サッダームとラムズフェルドの会談に同席するアズィーズ(右から3人目)

1979年、サッダーム・フセインが大統領に就任すると、ターリク・アズィーズは副首相に就任。イラン・イラク戦争開戦後の1983年には外相に任命され、積極的に諸外国を訪問し、特に欧米諸国やソ連のイラクに対する支持や軍事支援を取り付けた。

1980年4月1日、バグダードのムスタンスィリーヤ大学でシーア派反体制派組織ダアワ党による暗殺未遂に遭い、同行していたバアス党員が死傷したが、自身は軽傷を負ったのみで難を逃れた。

1984年にはアメリカを訪問、ロナルド・レーガン大統領と会談し、冷え込んでいた対米関係を回復させ、軍事支援も取り付けるなど、外交手腕を発揮した。ちなみに、当時アズィーズの部下には、後年「コミカル・アル」として知られることとなるムハンマド・サイード・サッハーフや、ナージ・サブリーニザール・ハムドゥーンといった後の外相、国連大使に任命される人物がいた。また、当時レーガン政権の特使としてイラクを訪問したラムズフェルドとサッダームとの会談にも立ち会っている。

湾岸戦争が始まるとイラクの正当性を訴える政権のスポークスマンとして、流暢な英語でバグダードを訪れている海外メディアを相手に連日記者会見し、アメリカや反イラク陣営に回るアラブ湾岸諸国を非難した。戦争阻止に向けて各国要人と会談、特にソ連に対して開戦阻止に向けて外交努力を行うよう求めた。

ジュネーヴでのハワード・H・ベーカーJr.国務長官との最終交渉ではクウェートからの即時撤退、イラクが国際社会から孤立してる現状を記したジョージ・H・W・ブッシュ大統領の親書を手渡されると「このような手紙を我が大統領閣下には渡せない」と付き返し交渉は決裂した。

ちなみにアズィーズ自身はフセインから直前にクウェート侵攻について知らされ、その無謀さに驚きクウェート侵攻反対を訴えを遠回しに言及するため、苦肉の策としてあえてサウジアラビア侵攻を唱えたと言われる。クウェートに侵入すれば米軍がサウジに進駐してくるので、サウジごと占領すべきだという意味で、計画の代償を伝えたかったのだが、この案を本気で受け取ったフセインに逆にたしなめられて、侵攻計画を止めることに失敗した。

湾岸戦争終結後の1991年、外相を解任(一説には辞任)されたが副首相職は留任。国連による武器査察の対応と経済制裁解除に向けた動きに奔走し、国連査察団からの米英人を排除するよう訴えた。

外相職を退いた理由は、貿易業を営んでいたアズィーズの長男ズィアド・アズィーズが父親の立場を利用して不正に利益を得ているとして逮捕されたためと報じられている。2001年8月にもズィアドは汚職と職権乱用で逮捕され、禁錮22年を求刑された。その際には副首相辞任を申し出たが、フセインに慰留(または辞任を受け入れた後に再任)された。

ズィアドの逮捕は、大統領の長男であるウダイ・サッダーム・フセインとズィアドとの間に貿易に関しての縄張り争いがあったこと、ウダイがアズィーズを嫌っていたことが原因と見られている。
イラク戦争?政権崩壊

2003年2月、アズィーズはバチカンを訪れローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と会談。会談後の記者会見で米英がイラクを攻撃すれば、世界のムスリムが「十字軍の再来」と受け取るだろうと警告した。


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