タンホイザー
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』(Tannhauser und der Sangerkrieg auf Wartburg)は、リヒャルト・ワーグナーが作曲した、全3幕で構成されるオペラWWV.70。一般的には『タンホイザー』(Tannhauser)の題名で知られている。序曲、第2幕のエリーザベトのアリア、「大行進曲」、第3幕のヴォルフラムのアリア「夕星の歌」は、独立してよく演奏される。

メディア外部リンク
全曲を試聴
音楽・音声
ドレスデン版プレイリスト - Warner Classics提供のYouTubeアートトラック
クラウス・ケーニヒ(ドイツ語版)(タンホイザー)、ルチア・ポップ(エリーザベト)、ベルント・ヴァイクル(ヴォルフラム)、ヴァルトラウト・マイアー(ヴェーヌス)、クルト・モル(ヘルマン)、ジークフリート・イェルザレム(ヴァルター)、ウォルトン・グレンルース(スウェーデン語版)(ビーテロルフ)、ガブリエーレ・ジーマ(英語版)(羊飼い)他
ベルナルト・ハイティンク指揮バイエルン放送交響楽団バイエルン放送合唱団
パリ版(ウィーン版)プレイリスト - Universal Music Group提供のYouTubeアートトラック
ルネ・コロ(タンホイザー)、ヘルガ・デルネシュ(英語版)(エリーザベト)、ヴィクター・ブラウン(英語版)(ヴォルフラム)、クリスタ・ルートヴィヒ(ヴェーヌス)、ハンス・ゾーティン(ヘルマン)、ヴェルナー・ホルヴェーク(ヴァルター)、マンフレート・ユングヴィルト(英語版)(ビーテロルフ)他
ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ウィーン国立歌劇場合唱団
映像
Tannhauser 。Richard Wagner - ルーマニア国立クルジュ=ナポカ歌劇場(英語版)公式YouTube
Otto Knille画『タンホイザーとヴェーヌス』
概要

ワーグナーが5番目に完成させたオペラ(未完の『婚礼』を除く)で、ワーグナー作品目録では70番目(WWV.70)にあたる。副題に『3幕からなるロマン的オペラ』(Romantische Oper in 3 Aufzugen)という題が与えられている。

前作『さまよえるオランダ人』の持つ番号形式を本作ではこれを脱却し、またワーグナー自身の言う「移行の技法」が随所に巧みに用いられていることが特徴である。

舞台は13世紀初頭、テューリンゲンヴァルトブルク城
作曲の経緯

『タンホイザー』が着想されたのは1842年(29歳)に遡る。当時ワーグナーは同年の4月にパリからドイツへ帰郷しており、ドイツのドレスデンで『リエンツィ』と『さまよえるオランダ人』の上演の機会を探していたが、この時期からすでに『タンホイザー』の散文の草稿を着手していたとされる。

1842年6月にワーグナーは場所を移して、ボヘミアの山岳地帯のアウシヒにて散文の草稿を仕上げる作業を6月28日から7月6日にかけて行い[1]、宮廷歌劇場の指揮者としての仕事もあったため一時中断をしたが、翌1843年5月22日に散文の草稿を韻文化した。また韻文化した草稿に音楽を付加するための小スケッチ類を多く書いたのち、夏にテプリッツに場所を移して、1843年初秋に作曲に着手した。第1幕は11月にテプリッツで、第2幕は翌1844年10月15日にドレスデンで、第3幕は12月29日に、序曲1845年1月11日にそれぞれ作曲を終わらせ、4月13日に全体の総譜を完成させた。

なお当初『ヴェーヌスベルク』という仮題をつけていたが、知り合いの医師からの助言で現在のタイトルに改題している[注釈 1]
初演

1845年10月19日にドレスデン宮廷歌劇場でワーグナー本人の指揮で初演された。表面的にはある程度の成功を収めたが、優秀な歌手を揃えていたにもかかわらず、聴衆の反応は冷淡であった。これは『リエンツィ』のような作品を期待していた大半の聴衆が、新作の『タンホイザー』の内容を理解できなかったことが原因であった(終幕においてヴェーヌスが姿を現さないこと、エリーザベトの葬列が出されなかったことが挙げられる)。

上演2日目(12月27日)は観客が半分に満たず、3日目(12月28日)こそ前日を上回ったものの、8日間上演されたのちに打ち切られた[3]。ただし1850年代中頃までにはドイツ各地の歌劇場40か所で上演されている(ベルリン1856年1月7日)[1]

「パリ版」による初演は、1861年3月13日にパリ・オペラ座で行われた。
各国での初演

1853年1月18日にリガで行われた公演は本作初の海外初演である(ドレスデン版による)。1854年11月25日にプラハ、1859年4月4日にニューヨークメトロポリタン歌劇場での上演は1884年)、1866年1月13日にオーストリアテメシュヴァール(現在はルーマニア領)、1876年5月6日にロンドンでそれぞれ行われた。
パリ初演1861年3月13日のパリ初演の告知

1861年ナポレオン3世の招きによって実現したパリでの初演はオペラ興行史上最も大きな失敗を引き起こしたものとして知られる。ワーグナーは2年前の1859年9月にパリに引っ越したが、これは『トリスタンとイゾルデ』の主役を歌える歌手を探すためだった。1860年1月から2月にかけて、パリのイタリア座で行われた自作の演奏会を開催し、『さまよえるオランダ人』の序曲や『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲などを披露した。この演奏会で多くの芸術家たちから支持を集めたが、マスコミからは敵視され、同地で自作のオペラを上演することを切望していたワーグナーは、この批判によって望みが失われたことにひどく落胆したといわれる[3]。その最中、ナポレオン3世から『タンホイザー』をオペラ座で上演するように勅命が下り、この思いもしない事態にワーグナーはそれに応えるべく矢継ぎ早にオペラの添削とフランス語訳に着手した。この勅命はパリ駐在のオーストリア大使の妻パウリーネ・フォン・メッテルニヒ侯爵夫人によるものとされている。夫人はワーグナーの崇拝者であり、パリ上演のための口添えをしたとされる[3]。ただしそれは「外交戦略」の一つとしてであった。

「パリ版」の改訂を終えたのは1861年1月のことで、197回もの上演リハーサルを重ねたと伝えられる。これは「春の祭典」の120回、「ヴォツェック」の150回を上回る。3月13日にナポレオン3世の臨席のもとに初演を迎えたが、オペラ座の会員でボックス席を予約していたジョッキークラブの若い貴族たちは、かつてバレエの挿入を要求した際に拒否されたことに対するワーグナーの態度を根に持って、公演を妨害しようと大声で嘲笑や怒号を放った。これにより初日の公演は収拾がつかない状態に至った。ブーイングは2回目(3月15日)3回目(3月25日)と徐々にエスカレートしていき、ジョッキークラブの貴族たちは仲間を呼び寄せ、ラッパや狩笛、などを持ち出して妨害工作を行い、喧騒をきわめた末、公演が続行できない事態にまで発展した[3]

この事態を知ったワーグナーは支配人に書簡で、自らの取った態度と慣習に従わなかったことの非を認め、『タンホイザー』の公演を撤回するに至った。
日本初演

日本においては、1920年(大正9年)12月29日に帝国劇場において、山田耕筰小山内薫近衛秀麿らが中心となって結成された日本楽劇協会により山田の実姉であるガントレット恒の渡欧資金募集の一環で、ドビュッシーの『放蕩息子(英語版)』とともに第3幕第1場と第2場を上演したのが、日本における部分初演であった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:76 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef