タンパ・レッド
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タンパ・レッド
タンパ・レッド(1930年代初頭)
基本情報
原語名Tampa Red
出生名Hudson Woodbridge
別名Hudson Whittaker
生誕

(1904-01-08) 1904年1月8日

アメリカ合衆国 ジョージア州スミスヴィル

死没

(1981-03-19) 1981年3月19日(77歳没)

アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ

ジャンルブルース、ホーカム
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ミュージシャン

歌手

ソングライター

担当楽器ギターカズー
活動期間1920年代 - 1960年代
レーベルヴォカリオンブルーバードRCAビクター

タンパ・レッド(Tampa Red、出生名ハドソン・ウッドブリッジ、後にハドソン・ウィテカーに改名; 1904年1月8日 ? 1981年3月19日)は、米国のブルース・ミュージシャンである。

彼の単音で奏でられる特徴的なスライド・ギターのスタイルとソングライティング、ボトルネック奏法のテクニックはビッグ・ビル・ブルーンジー、ロバート・ナイトホーク、エルモア・ジェームスなど、シカゴ・ブルースのミュージシャンたちに影響を与えている[1]。30年以上に及ぶキャリアの中で、彼はポップスR&B、ホーカムなどの楽曲もレコーディングしている。彼の最も著名なレコーディングとしては「Anna Lou Blues」、「Black Angel Blues」、「Crying Won't Help You」、「It Hurts Me Too」、「Love Her with a Feeling」などがある[2]
来歴
幼少期

タンパ・レッドはジョージア州スミスヴィルに生まれた。彼の生年月日については、レッド本人が1900年、1908年など複数の生年を語っていたこともあり、はっきりとしない。彼の死亡証明書に記載された生年月日は1904年1月8日となっている[3]。彼の両親のジョンとエリザベス・ウッドブリッジは、共にレッドがまだ幼い頃に亡くなった。彼はフロリダ州タンパに移住し、叔母と祖母に育てられた。以後彼らの姓ウィテカー (Whittake)を名乗るようになった[4]。彼はタンパ周辺でギターを弾いて活動していた兄のエディーを模倣することでギターの腕を磨いた。レッドはまたピッコロ・ピートと名乗る老齢のストリート・ミュージシャンに影響を受けている。彼はレッドに初めてブルース・ギターを教えた人なのだという。レッドは、この他マ・レイニー、ベッシー・スミス、アイダ・コックスなどの女性ブルース・シンガーたちの初期のレコーディングを聴くことによっても知識を身につけることにつなげている。レッドはマーティン・ウィリアムズとのインタビューで次のように語っている。「あの(1920年の)メイミー・スミスの[クレイジー・ブルース]は一番最初に作られたブルースのレコードのひとつです。私は『音楽のことは知らないけど、あれならプレイできる』そう思いましたよ。」[1]
キャリア

1925年には、彼は既に自身のスライド・ギターのテクニックを完成させてシカゴに移住。「タンパ・レッド」の芸名を名乗り、ストリート・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせた。芸名は、幼少期の故郷タンパの地と彼の肌色の浅さに由来している[4]。彼にとって大きなチャンスが訪れたのはマ・レイニーのサポート・ミュージシャンとして雇われたことだった。シカゴでは、彼はジョージア・トムの名で知られたトーマズ・A・ドーシーと出会った。ドーシーはピアニスト、作曲家、編曲家として成功を収めており、マ・レイニーを始めその時代をけん引する女性ブルース・シンガーと演奏、レコーディングの実績があった。ドーシーは、シカゴのパラマウント・レコードのJ・メイヨー・ウィリアムズにレッドを紹介し、彼が1928年、レッドのレコーディング・セッションの手はずを整えたのだった。

レッドの初レコーディングThrough Train Blues」はヒットとはならなかった。というのも、この曲は当時パラマウント最大のスターだったブラインド・レモン・ジェファーソンの「How Long How Long」のB面という扱いだったからであった[4]。全米の話題となったのは彼の2曲目のレコーディング「It’s Tight Like That」であった。当時ポピュラーだったキャッチ・フレーズ「タイト・ライク・ザット(それはきつい=[厳しい]の意とわいせつな意のダブルミーニングと考えられる)」を元に作られたチャーリー・ジョーダンの曲から拝借する形の内容をレッドとジョージア・トムが演奏しているのをメイヨー・ウィリアムズが耳にし、非常に気に入ってすぐにレコーディングすることになったという。[4]。ホーカムとして知られることとなったみだらでユーモアに満ちたスタイルで演奏されたこの曲は、100万枚を売り上げるヒットとなった。人々がこのレコードを買い求めるためにレコード店の外で並んでいた、とレッドは後になって回想している。この曲の作詞・作曲はレッドとトムの名義となり、彼らはこの曲で得られた約4千ドルのロイヤルティを山分けしたという[4]

タンパ・レッドの初期のレコーディングの大部分はトムとの共同作業で生まれている[4]。彼らは90曲近くをレコーディングした。ときにはホーカム・ボーイズを名乗り、あるいはフランキー・ジャクソンを加えてタンパ・レッドのホーカム・ジャグ・バンド名義のときもあった。1928年から1929年にかけ、レッドとトムは自らのレコードの制作以外でも、マ・レイニー、マデリン・デイヴィス、リル・ジョンソン、そして女性の物まね芸で知られたフランキー”ハープパイント”ジャクソンなどのレコーディングにも参加した[4]

1928年、レッドはその年発売となった ナショナル製のスチール・ボディーのリゾネーター・ギターを入手。彼は初めてこのギターをプレイした黒人となった。このギターはアンプリフィケーション(音の電気的な増幅)が一般的になる以前の時代では最も音が大きかった。このことにより、彼はブロック・コードではなく、一弦ずつメロディーを弾く彼のトレードマーク的ボトルネック・スタイルを編み出すことが可能となった。彼のこのスタイルは後のブルース、ロックのギター・ソロの先駆的な役割を果たしたのである[5]

彼が使用したナショナルのギターは、金箔を施したトライコーンで、1990年代に楽器店の店主でギタリストのランディ・クレメンズによってイリノイ州で発見され、後になってシアトルのエクスピリエンス・ミュージック・プロジェクトに売却された[6]。レッドは「黄金のギターを持つ男」として知られ、1930年代に入ると「ギターの魔術師」との触れ込みで売り出されるようになった。1931年、レッドは「Depression Blues」をレコーディング。この曲には時事的な次の歌詞が含まれていた。「私の苦難を伝えられるのなら、それは私の心に安らぎを与えてくれる。しかし不景気にやられてしまった。お願いだ、誰か助けてくれ。」[7]


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