タンド線
路線図
基本情報
国 イタリア
フランス
起点クーネオ
終点ヴェンティミーリア
開業1887年
所有者レーテ・フェッロヴィアーリア・イタリアーナ
フランス鉄道線路事業公社
運営者フェッロヴィーエ・デッロ・スタート
フランス国鉄
路線諸元
路線距離62.5 km
軌間1,435 mm (標準軌)
線路数単線
電化方式直流3000V (クーネオ - リモーネ)
最大勾配25パーミル
最小曲線半径300 m
最高速度80 km/h
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タンド線(タンドせん、フランス語: Ligne de Tende)あるいはテンダ線(イタリア語: Linea del Tenda)とは、イタリアとフランスの国境地帯を走る鉄道路線である。イタリア・ピエモンテ州のクーネオから、タンド峠
を越えフランス領アルプ=マリティーム県のタンド(イタリア名: テンダ)を経由し、地中海沿岸のイタリア・リグーリア州のヴェンティミリアを結ぶ本線と、途中のブレイル・シュル・ロワイヤで分岐しニース(ニース・ヴィル駅)に至る支線からなる。イタリアとフランスの国境を越える3本の鉄道路線の一つであるが、他の2本(ニース-ヴェンティミリア-ジェノヴァ、リヨン-シャンベリ-トリノ)が長距離列車の多く通る幹線であるのに対し、タンド線は地域輸送と観光が主体のローカル線としての性格が強い。
西アルプス山脈を越えるトンネルの最高点での標高は1040mあり、海岸のヴェンティミリアやニースとの標高差は1000mを越える。両国にとって最大の山岳路線
であり、これほどの高低差のある路線はヨーロッパでは他にレーティッシュ鉄道の路線群があるのみである。ロワイヤ川の渓谷に沿う景勝路線でもあり、トーマス・クック・ヨーロッパ鉄道時刻表の「ヨーロッパの景勝ルート」にも選ばれている。タンド線の歴史はイタリアとフランスの関係を強く反映している。計画時から現在までに国境は二度変わっている。また第二次世界大戦時には深刻な被害を受け、長期間の運休を余儀なくされた。
タンド線沿線、特にニース-ブレイユ・シュル・ロワイヤ間は極めて不安定な地質であり、落石の危険が付き纏う。このため一部区間では最高速度が10km/hにまで規制されており、また落石検知用のワイヤーが張られている。ヴェンティミリア?クーネオ間断面図 起終点、分岐駅を含み、休止中の駅を除く。 タンド峠
路線延長と駅数
クーネオ-ヴェンティミリア: 99.4km・16駅
ニース-ブレイユ・シュル・ロワイヤ: 44.1km・11駅
歴史
タンド峠の街道タンド峠のイタリア側。右下にリモーヌ駅が見える。
中世以降、峠の北のピエモンテはサヴォイア家(サヴォイア公国、サルデーニャ王国)の支配下に入っていた。フランス革命からナポレオン戦争の時代には一時フランスに併合されたが、ウィーン会議の結果サルデーニャに復帰した。峠の西方のニースはサヴォイア家とフランスの勢力の間で争奪が繰り返され、南のリグーリアはジェノヴァ共和国の領土だったが、これらもウィーン会議の後サルデーニャ領として確定した。
初期の計画ブレイユ・シュル・ロワイヤ駅南方の橋梁。上がニース方面、下がヴェンティミリア方面への線路。
1850年代以降、サルデーニャではピエモンテと地中海を結ぶ鉄道の建設が計画された。1874年にはトリノとサヴォーナを結ぶ路線が開業している。
現在のタンド線の原型となる計画は、1856年にイタリア人技術者フィリッポ・セノッティによって提案されたものである。ただし現在の路線とはロワイヤ川下流部での経路が異なる。一方1857年にはプティ=ニスペルによって現タンド線よりも西よりのルートでニースとクーネオを結ぶ路線が提案されている。
1860年、サルデーニャはプロンビエールの密約によりニースをフランスに割譲した。この結果、ロワイヤ川下流のヴェンティミリアはサルデーニャ(1861年以降はイタリア王国)領のままだったが、中流部はフランス領となった。ただし国境は現在のものと異なり、ロワイヤ川上流のタンドとラ・ブリグはサルデーニャ領にとどまった。これは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の狩場を領内に残すためとされているが、国防上の意図もあった。
フランスでは、1879年の鉄道整備計画「フレシネ計画」の中で、ニースからソスペル、ブレイユ・シュル・ロワイヤを経由してイタリア国境のフォンタンに至る路線が定められた。同じ頃イタリアでもタンド線クーネオ-ヴェンティミリア間の建設が決定した。ただしフランスでは国防上の理由から鉄道建設に反対する意見が広まり、1887年には調査事務所が閉鎖されてしまった。 1883年、イタリア側の路線の工事がクーネオから始まった。1889年にはタンド峠トンネルの掘削が始まり、1898年に貫通した。フランスでは1900年に軍務省がニース-ブレイユ・シュル・ロワイヤ間の着工を決めた。スカラスイ橋 この頃イタリアでは、路線の経路を修正して全線がイタリア領内を通るようにすべきだとの提案がなされたが、そのためには稜線のイタリア側に長大トンネルを掘らなければならないため却下された。一方フランス側では、ソスペル-ブレイユ・シュル・ロワイヤ間の経路を短縮するため、グラジヤン山の地下にトンネルを掘ることが提案された。このトンネルは両端はフランス領だが、全長3882mのうち中間の2305mがイタリア領の地下を通っているため、建設には両国の合意が必要であった。 1904年6月のフランス・イタリア間の協定で、ニース-クーネオ間を1914年に開通させることが定められた。1908年にはロワイヤ川下流部分のヴェンティミリアからフランス国境までの工事が始められ、また1912年にはニース-ソスペル間のブラウストンネル(5938m)が着工された。 1914年、第一次世界大戦の勃発にともない、フランス側の工事は中断した。イタリア側ではその後も工事が続けられたが、1915年のオーストリア・ハンガリー帝国との開戦にともない、やはり工事が中断した。 戦後工事は再開された。1921年にはスカラスイ、サオルジュの橋梁が着工され、ともに1923年に完成した。 1928年10月30日、クーネオ-ヴェンティミリアおよびブレイユ・シュル・ロワイヤ-ニースの全線が開業した。イタリア側ではイタリア国鉄(FS)が、フランス側ではパリ-リヨン-地中海鉄道(PLM、1938年以降フランス国鉄)が運営を担当した。 1931年には、イタリア領区間のクーネオ-サン・ダルマ・ド・タンドとピエーヌ-ヴェンティミリア間が三相交流3600V、16Hz2/3で電化された。
鉄道建設
開業高架橋の脇に架線柱の跡が残る。